メイドと栞と退屈な書斎1
なんとか軌道に乗った気がするので
長編をぼちぼち公開して行きます
最後まで書ききりたいですがはてさて…
プロローグ
: メイドと栞と退屈な書斎
人の一生は、あらかじめ決定されている。
努力が報われるのは英雄譚に登場する主人公だけで、現実には分相応という枠組みから逸脱できる人間など存在しない。
教養のない者がエリートとは呼ばれないように。
貧困層で育った男が世界を左右する富豪になれないように。
醜い男が、麗しの貴婦人と添い遂げられないように。この世は決して覆せない必定がある。
だが彼は、いとも簡単に運命を打ち破った。
エリートを奴隷として売り出し。
富豪を破産へと導き。
麗しの令嬢を醜悪な男の元に嫁がせた。
自らが高みへ登るのではなく、高みにいる人間を蹴落とすことで世界の必定は容易く覆される。
部下達は彼を「魔法使いだ」と賞賛し、心酔していた。
魔法など、この世に存在しない。あるのは人の欲望と、それを叶える悪意だけだ。
殺意をもてあましている人間にナイフを渡し、その結果成功者が破滅していくさまを見物するのが、彼の唯一の楽しみだった。
男は、マルクと名乗った。
***
マルクは退屈だった。
悪意を抱く人間を何人も見抜き、仲間として迎え入れるうちに、彼は一大組織をまとめ上げるボスとして君臨するようになった。しかし、気だるい気分は依然として払拭されず、ただひとつの楽しみ……人の一生を壊す瞬間だけが心を奮わせた。
今日も一人、失敗を犯した末端の部下が処刑されようとしている。
広大な地下迷路を一望できる場所で、彼はオペラグラスを片手に、逃げ惑う部下の焦燥を眺めていた。壁をいくつか挟んだ通路には、別の部下たちが剣を片手に獲物を探している。
武闘派三人に対し、逃げる部下は丸腰だった。腕に覚えがあれば生き延びることも出来るだろうが、荷運びばかり専門としていた男では逆転の可能性は低い。
だからこそ意味がある。
この状況から生還できるのなら、彼を再び傍に置いておきたいとマルクは考える。
「さあ……君の運命を覆してくれ」
逃げ惑う男はあたりを警戒しながら進み、二又に分かれた道を右に曲がった。
瞬間、鮫の歯を模した金属が口を閉じ、男の足首に食らいつく。
男は悲鳴を上げ、その絶叫が他の三人を一斉に振り向かせた。
チェックメイトだ。
マルクは歪曲していた口を真一文字に結び直し、オペラグラスを両目から離した。
背中で男達の怒号を聞きながら、次は何をしようかと画策する。
つまらない人間はつまらない死に方をしかできない。そこそこ楽しめたが、やはり面白味に欠けた。
獲物は心身ともに豊かな人間がいい。
順風満帆な人生を歩んできた人間を破滅に追いやってこそ、この退屈を忘れる事が出来る。
だが、組織として行う狩りはずいぶん前から様式化され、心の底から楽しめなくなっていた。
もっと違う人間になりたい。予想外に満ちた人生を送りたい。
今とは全く違う方法で他人の運命を弄び、破壊したい。
そのためなら組織も、己の命すらも、どうでもよかった。
男を処刑して三日後。マルクが部下達と次の獲物について話し合っていると、突然部屋の片隅から女の声がした。
「あ、あのぅ。マルク様、ですよね……」
振り向くと、先ほどまで誰もいなかった空間に見たことのない若い女が立っていた。
紺色と白のオーソドックスなメイド服を着て、その上から黒の外套を羽織っている。
亜麻色の髪が肩口のところで途切れ、血のような赤い瞳はいつ泣き出しても不思議ではないほど不安げに揺れていた。
「なんだてめぇ、どこから入った!」
側近の一人が謎の女に向かって怒鳴り散らすと、メイド服を着た女は瞳をきゅっと閉じてしゃがみこんだ。
「ごごごごめんなさいごめんなさい! お邪魔するつもりは本当になくて、あの、私、いつもタイミングが悪くてご主人様には何度もご迷惑をおかけして」
一体何の話をしているのか、皆目見当がつかない。
部下たちが詰め寄っても女は小動物のように怯え、ひたすらワケのわからない謝罪をするだけだった。
「……それで、俺に何の用だ?」
しばらく成り行きを見守るのもいいが、その場合、部下達による陵辱劇がはじまるのは明らかだ。
妙な格好をしているが、幼さを残した可愛らしい顔立ちとメイド服の上からでもわかるメリハリの利いた肉体は、欲望に正直な獣共にとって良いオモチャになるだろう。
それはそれで楽しそうだが、女の目的を知ってからでも遅くはない。
「ボス! こんな女の話を聞くんですか!?」
「その通りだが?」
「いけません! このような怪しい者と直接言葉を交わすなどと、組織の」
部下の言葉は最後まで紡がれることはなかった。
わかりやすい凶器を差し向けたからではなく、ただの一睨み。それだけで息巻いていた部下は口をつぐみ、自らの失言に青ざめた。
「……狩り場の準備を」
「ハッ」
忠実な部下が数名、慌しく部屋から出て行く。
口答えをした部下は膝を折り、床に額をこすり付けて命乞いを始めた。
「用件を聞こう」
マルクは這いつくばる男を無視して、再度メイド服の女に視線を向けた。
赤い瞳は、相変わらず心細そうだった。
「あの、えと……簡単に申し上げますと、マルク様は世界を覆す者として選ばれました」
言いながら女は、外套の中から洋酒のビンを取り出し、無理矢理作ったような笑みと共におずおずと差し出してきた。
「これは、我々の世界に適応するためのお薬です。一口飲んでいただければ、すぐに効果が現れます」
「……」
マルクは無言のまま首を振り、部下にその酒瓶を受け取らせる。グラスに注いだ液体は茶色で、ウィスキーにそっくりだった。
「やれ」
「ハッ」
言葉少なに指示を飛ばすと、部下はいまだに命乞いを繰り返す男の髪を引っつかみ、注いだばかりの液体を口の中に流し込んだ。
「ううぐっ、うむっ、ううっ」
仰向けにされた男は、溺れまいと必死で酒らしき液体を飲み下し、グラスを空にする。
メイド女の言う通り、効果はすぐに現れた。
「ふぐっ、ひぎゃああああああああぶぶぶ!!!!」
断末魔の悲鳴と共に男が喉をかきむしり、口から泡を吹く。だかそれで終わりではない。
男の体が、ドロリと崩れ始めた。
まるで火をつけた蜜蝋のように、人の形が凄まじい勢いで溶けていく。
やがて悲鳴は途絶え、肉塊と男の着ていた服だけがその場に残された。
「あああの……その薬は、マルク様以外には効果がなくて……」
言い訳など聞く耳持たず、側近たちはそれぞれの武器をメイド女に差し向ける。すぐに抹殺しなかったのは、全員がボスであるマルクの命令を待っているからだ。
「ひぃぃ!? ごめんなさいごめんなさいぃ!」
女は両腕を上げて、無抵抗を示した。
殺気をもてあました部下達の視線を受け流し、マルクは女と溶けた元部下をそれぞれ見比べる。
(人間が溶ける毒など聞いた事もない……)
肉塊に触れてみる。弾性があり、まるで泥のようだった。
胸の内に、じくじくと興奮が宿る。
「……すごいな。どこで手に入れた?」
「えっ、あの……ご主人様から預かっただけで、私も、よくわかっていないのです。……わ、私からも一ついいでしょうか」
メイド服の女は現れた当初と変わらない気弱な表情のまま、マルクを上目遣いに見た。
刃を突きつける部下達のことなど、まるで意に介する様子もない。
それどころか、目の前で人間が肉塊になった瞬間すら顔色一つ変えていなかった。
嗜虐心をそそる臆病な態度の裏で、一体どのような胸中が渦巻いているのか。俄然、興味が湧く。
「……言ってみろ」
メイド服の女は発言を許されたことに安堵したのか、小さく息を吐いてから赤い瞳でマルクの姿を捉えた。
「あなたは、この世界が退屈ではありませんか?」
「……なんだと?」
「ご主人様にお会いすれば、あらゆる世界を行き来し、あらゆる人生を経験できます。退屈から永遠に解放されるのです」
「……まるで楽園を説く修道女のようだな。つまり君は、神の使いだと?」
マルクは女のアゴを持ち上げ、至近距離から彼女の瞳を覗き込んだ。
宝玉のような美しさだ。くり抜いて売れば、きっと良い値がつくだろう。
「あ、あああの、ななな何を……」
「君が神託を受けた聖者だというなら、この程度の窮地など簡単に抜け出せるはずだ。違うか?」
腰に挿した短刀を引き抜き、女の赤い瞳へと近づける。
銀色にきらめく先端を涙目で捉え、メイド服の女は喉を震わせて答えた。
「じゃ、じゃあ、わた、私が消えたら……お薬、飲んでいただけますか?」
出てきたのは命乞いではなく、聞き分けのない子供を諭すような台詞だった。
予想が覆されたのは、久しぶりだ。マルクの唇はますます愉悦に捻じ曲がった。
「その先に、退屈と無縁の世界が待つなら」
「では、お待ちしています」
それまで怯えるか泣くかしかしなかった女が、初めて穏やかな表情を浮かべる。
安らかに細められた瞳に向かって、マルクは短刀を持つ腕を突きだした。
研ぎ澄まされた切っ先は、女の赤い瞳をいっそう鮮血へと染めるはずだった。しかし刃はむなしく空を切り、先刻まで目の前にいた女はどこにもいなくなっていた。
「消えた……!?」
部下たちがざわめき、周囲を見渡す。
入り口。天井。床。壁。どこにも逃げた痕跡などない。大勢の人間が彼らのボスとメイド服の女に注目していた。だが今そこにいるのは、不自然なポーズで短刀を突き出すマルクだけだ。
煙幕や閃光による目くらましすらなく、まるで最初から存在しなかったように忽然と姿を消した。だが、溶けた肉塊や部下が受け取った洋酒瓶は依然としてそこにある。
「くっ……くく……ははははっ!」
予想外。埒外。不可侵ともいえる世の中の道理が覆された決定的瞬間だ。
マルクの胸に去来したのは、かつてないほどの昂揚感だった。
愉快であり痛快。膿んでいた精神へ、強烈な熱が迸る。
これまで培ってきた常識を捨て、先ほどのメイドの言葉を全肯定するには充分すぎるほどの好奇心が湧き立った。
「ヤーグ」
側近の名を呼び、同時に部下から洋酒瓶を奪い取る。
「組織はお前にくれてやる」
フタを開け、瓶を傾ける。部下たちが止める間もなく、注ぎ口からこぼれる薄茶色の液体がマルクの歪んだ口の中へと吸い込まれていった。
「ぼ、ボス!?」
悲鳴のような側近の声が聞こえ、他の部下達からも信じられないという視線を浴びる。それらを一切無視して、人間が溶けた謎の液体を猛然と喉へと流し込んだ。
心臓が大きく弾み、身体の内側に火がともされる。炎は血管を通じて全身に燃え広がった。
意識が酩酊し、天地が逆転する。視界がかすれ、声を出すことも、呼吸すらも面倒になる。
しかし彼の唇は、形が崩れるその瞬間まで楽しげに捻じ曲がっていた。
***
気が付くと、マルクはまったく見覚えのない場所にいた。
しんと静まり返った、ほの暗い空間だ。巨大な書架に左右を囲まれ、仰向けに寝かされている。
書架は最上段が視認できないほどうず高く、天井には夜空と星々がまたたいていた。
(どこだ、ここは……)
思考にはモヤがかかり、ハッキリした事が思い出せない。
奇妙な女から酒らしき物を受け取り、興奮に任せて一気に飲み干した。それから先の記憶がプツリと途絶えている。
ふらつく頭を支えながら上半身を起こすと、違和感があった。
(ん……なんだ、この手は)
気だるい気分を支える右手が、記憶にある自分のそれよりも一回りほど縮んでいた。
五本の指は繊細そのもので、肌も白い。まるで女の手だ。
拳を握り締め、開くと、右手も寸分たがわず同じ動作をする。
「これは……」
女の声が感嘆をこぼし、マルクは瞠目して喉元をさすった。
「……そういう、ことか?」
これまで自分が発してきた声とはまるで違う。軽く柔らかみのある声は少女のようだ。
おぼろげながら、状況がだんだんつかめてきた。
視線を下げると、あの気弱そうな女と同じ、紺色と白のオーソドックスなメイド服を着ていた。胸部には膨らみがあり、乱雑に掴むと弾力と同時に多少の痛みが走った。
本物だ。
「新しいカラダの具合はどうだ?」
ハツラツとした男の声がこだまし、マルクは顔を上げる。
いつからそこにいたのか、果てしないほど長い廊下に、紳士服姿の若い男が佇んでいた。
丸眼鏡の向こうにある双眸を細め、短髪の男が後ろ手に組んだまま近づいてくる。
自信に満ち溢れた、支配者としての余裕が滲み出た笑みだった。
「可愛い顔にしてやったのに、酷い目つきだな。鏡を見るか?」
「……興味がない」
男の後ろには、先刻のメイド服の女もいる。
「あ、あの、ようこそおいでくださいました……歓迎いたします」
相変わらず何かに怯えているような眼差しのままだが、声には多少の落ち着きがあった。
それはつまり、ここが彼女にとって安心できる場所であり、信頼できる人間が傍にいるということだ。
「ここが、退屈とは無縁の世界?」
無限とも思えるほどの膨大な数の書籍を敷き詰めた、巨大な本棚。
物音は一つとしてなく、天井には満天の星空が広がっている。
心の療養をするなら上出来な空間だ。ただしそれは一時的なものだろう。
本を楽しむことも、星を眺めることも、いつかは飽きる。本の内容や種類にかかわらず、読む行為そのものが億劫に感じるのだ。
「期待はずれだな……元の世界の方がまだマシじゃないか?」
嘆息と共に睨みつけると、メイド服の女は小さな悲鳴を上げ丸眼鏡の男の背に隠れた。
男は大仰な身振り手振りで、わざとらしく驚いてみせる。
「テイミー。もしかして、ちゃんと説明せずにつれてきたのか?」
「え? あの、とりあえず連れて来いって言ったのは、ご主人様では……」
「んん? そうだったかなぁ?」
ニヤニヤとしたまま、男が再びマルクに視線を移す。
「申し訳ないねマルク。さぞかし混乱しているだろう」
「……では、君が俺の疑問を解き明かしてくれるのかな?」
冷静な態度を崩さないマルクだが、指摘どおり多少なりとも困惑していた。だが今の状況を楽しんでいる気持ちもあった。
男からは、同類の匂いがする。
退屈な人生に嫌気が差し、破滅的な刺激を求める狂人の笑みだ。
「あらゆる世界は、女神によって創造されている」
男が笑みを崩さないまま、わけのわからないことを口走る。
「ほう?」
「彼女が力を奪われ、絶望する瞬間を目にしたい。協力してくれるかな?」
「乗ろう」
女になった自分になど興味はないし、神を持ち出されたところで信仰心などカケラもない。
だが、創造主の立場を危ぶませる事が出来るのなら。
それは、素晴らしく魅力的な計画だった。
タイトルや設定でピンと来た人は屋上握手です
ダークな展開が欲しいとずっと思っていました。
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長編をぼちぼち公開して行きます
最後まで書ききりたいですがはてさて…
プロローグ
: メイドと栞と退屈な書斎
人の一生は、あらかじめ決定されている。
努力が報われるのは英雄譚に登場する主人公だけで、現実には分相応という枠組みから逸脱できる人間など存在しない。
教養のない者がエリートとは呼ばれないように。
貧困層で育った男が世界を左右する富豪になれないように。
醜い男が、麗しの貴婦人と添い遂げられないように。この世は決して覆せない必定がある。
だが彼は、いとも簡単に運命を打ち破った。
エリートを奴隷として売り出し。
富豪を破産へと導き。
麗しの令嬢を醜悪な男の元に嫁がせた。
自らが高みへ登るのではなく、高みにいる人間を蹴落とすことで世界の必定は容易く覆される。
部下達は彼を「魔法使いだ」と賞賛し、心酔していた。
魔法など、この世に存在しない。あるのは人の欲望と、それを叶える悪意だけだ。
殺意をもてあましている人間にナイフを渡し、その結果成功者が破滅していくさまを見物するのが、彼の唯一の楽しみだった。
男は、マルクと名乗った。
***
マルクは退屈だった。
悪意を抱く人間を何人も見抜き、仲間として迎え入れるうちに、彼は一大組織をまとめ上げるボスとして君臨するようになった。しかし、気だるい気分は依然として払拭されず、ただひとつの楽しみ……人の一生を壊す瞬間だけが心を奮わせた。
今日も一人、失敗を犯した末端の部下が処刑されようとしている。
広大な地下迷路を一望できる場所で、彼はオペラグラスを片手に、逃げ惑う部下の焦燥を眺めていた。壁をいくつか挟んだ通路には、別の部下たちが剣を片手に獲物を探している。
武闘派三人に対し、逃げる部下は丸腰だった。腕に覚えがあれば生き延びることも出来るだろうが、荷運びばかり専門としていた男では逆転の可能性は低い。
だからこそ意味がある。
この状況から生還できるのなら、彼を再び傍に置いておきたいとマルクは考える。
「さあ……君の運命を覆してくれ」
逃げ惑う男はあたりを警戒しながら進み、二又に分かれた道を右に曲がった。
瞬間、鮫の歯を模した金属が口を閉じ、男の足首に食らいつく。
男は悲鳴を上げ、その絶叫が他の三人を一斉に振り向かせた。
チェックメイトだ。
マルクは歪曲していた口を真一文字に結び直し、オペラグラスを両目から離した。
背中で男達の怒号を聞きながら、次は何をしようかと画策する。
つまらない人間はつまらない死に方をしかできない。そこそこ楽しめたが、やはり面白味に欠けた。
獲物は心身ともに豊かな人間がいい。
順風満帆な人生を歩んできた人間を破滅に追いやってこそ、この退屈を忘れる事が出来る。
だが、組織として行う狩りはずいぶん前から様式化され、心の底から楽しめなくなっていた。
もっと違う人間になりたい。予想外に満ちた人生を送りたい。
今とは全く違う方法で他人の運命を弄び、破壊したい。
そのためなら組織も、己の命すらも、どうでもよかった。
男を処刑して三日後。マルクが部下達と次の獲物について話し合っていると、突然部屋の片隅から女の声がした。
「あ、あのぅ。マルク様、ですよね……」
振り向くと、先ほどまで誰もいなかった空間に見たことのない若い女が立っていた。
紺色と白のオーソドックスなメイド服を着て、その上から黒の外套を羽織っている。
亜麻色の髪が肩口のところで途切れ、血のような赤い瞳はいつ泣き出しても不思議ではないほど不安げに揺れていた。
「なんだてめぇ、どこから入った!」
側近の一人が謎の女に向かって怒鳴り散らすと、メイド服を着た女は瞳をきゅっと閉じてしゃがみこんだ。
「ごごごごめんなさいごめんなさい! お邪魔するつもりは本当になくて、あの、私、いつもタイミングが悪くてご主人様には何度もご迷惑をおかけして」
一体何の話をしているのか、皆目見当がつかない。
部下たちが詰め寄っても女は小動物のように怯え、ひたすらワケのわからない謝罪をするだけだった。
「……それで、俺に何の用だ?」
しばらく成り行きを見守るのもいいが、その場合、部下達による陵辱劇がはじまるのは明らかだ。
妙な格好をしているが、幼さを残した可愛らしい顔立ちとメイド服の上からでもわかるメリハリの利いた肉体は、欲望に正直な獣共にとって良いオモチャになるだろう。
それはそれで楽しそうだが、女の目的を知ってからでも遅くはない。
「ボス! こんな女の話を聞くんですか!?」
「その通りだが?」
「いけません! このような怪しい者と直接言葉を交わすなどと、組織の」
部下の言葉は最後まで紡がれることはなかった。
わかりやすい凶器を差し向けたからではなく、ただの一睨み。それだけで息巻いていた部下は口をつぐみ、自らの失言に青ざめた。
「……狩り場の準備を」
「ハッ」
忠実な部下が数名、慌しく部屋から出て行く。
口答えをした部下は膝を折り、床に額をこすり付けて命乞いを始めた。
「用件を聞こう」
マルクは這いつくばる男を無視して、再度メイド服の女に視線を向けた。
赤い瞳は、相変わらず心細そうだった。
「あの、えと……簡単に申し上げますと、マルク様は世界を覆す者として選ばれました」
言いながら女は、外套の中から洋酒のビンを取り出し、無理矢理作ったような笑みと共におずおずと差し出してきた。
「これは、我々の世界に適応するためのお薬です。一口飲んでいただければ、すぐに効果が現れます」
「……」
マルクは無言のまま首を振り、部下にその酒瓶を受け取らせる。グラスに注いだ液体は茶色で、ウィスキーにそっくりだった。
「やれ」
「ハッ」
言葉少なに指示を飛ばすと、部下はいまだに命乞いを繰り返す男の髪を引っつかみ、注いだばかりの液体を口の中に流し込んだ。
「ううぐっ、うむっ、ううっ」
仰向けにされた男は、溺れまいと必死で酒らしき液体を飲み下し、グラスを空にする。
メイド女の言う通り、効果はすぐに現れた。
「ふぐっ、ひぎゃああああああああぶぶぶ!!!!」
断末魔の悲鳴と共に男が喉をかきむしり、口から泡を吹く。だかそれで終わりではない。
男の体が、ドロリと崩れ始めた。
まるで火をつけた蜜蝋のように、人の形が凄まじい勢いで溶けていく。
やがて悲鳴は途絶え、肉塊と男の着ていた服だけがその場に残された。
「あああの……その薬は、マルク様以外には効果がなくて……」
言い訳など聞く耳持たず、側近たちはそれぞれの武器をメイド女に差し向ける。すぐに抹殺しなかったのは、全員がボスであるマルクの命令を待っているからだ。
「ひぃぃ!? ごめんなさいごめんなさいぃ!」
女は両腕を上げて、無抵抗を示した。
殺気をもてあました部下達の視線を受け流し、マルクは女と溶けた元部下をそれぞれ見比べる。
(人間が溶ける毒など聞いた事もない……)
肉塊に触れてみる。弾性があり、まるで泥のようだった。
胸の内に、じくじくと興奮が宿る。
「……すごいな。どこで手に入れた?」
「えっ、あの……ご主人様から預かっただけで、私も、よくわかっていないのです。……わ、私からも一ついいでしょうか」
メイド服の女は現れた当初と変わらない気弱な表情のまま、マルクを上目遣いに見た。
刃を突きつける部下達のことなど、まるで意に介する様子もない。
それどころか、目の前で人間が肉塊になった瞬間すら顔色一つ変えていなかった。
嗜虐心をそそる臆病な態度の裏で、一体どのような胸中が渦巻いているのか。俄然、興味が湧く。
「……言ってみろ」
メイド服の女は発言を許されたことに安堵したのか、小さく息を吐いてから赤い瞳でマルクの姿を捉えた。
「あなたは、この世界が退屈ではありませんか?」
「……なんだと?」
「ご主人様にお会いすれば、あらゆる世界を行き来し、あらゆる人生を経験できます。退屈から永遠に解放されるのです」
「……まるで楽園を説く修道女のようだな。つまり君は、神の使いだと?」
マルクは女のアゴを持ち上げ、至近距離から彼女の瞳を覗き込んだ。
宝玉のような美しさだ。くり抜いて売れば、きっと良い値がつくだろう。
「あ、あああの、ななな何を……」
「君が神託を受けた聖者だというなら、この程度の窮地など簡単に抜け出せるはずだ。違うか?」
腰に挿した短刀を引き抜き、女の赤い瞳へと近づける。
銀色にきらめく先端を涙目で捉え、メイド服の女は喉を震わせて答えた。
「じゃ、じゃあ、わた、私が消えたら……お薬、飲んでいただけますか?」
出てきたのは命乞いではなく、聞き分けのない子供を諭すような台詞だった。
予想が覆されたのは、久しぶりだ。マルクの唇はますます愉悦に捻じ曲がった。
「その先に、退屈と無縁の世界が待つなら」
「では、お待ちしています」
それまで怯えるか泣くかしかしなかった女が、初めて穏やかな表情を浮かべる。
安らかに細められた瞳に向かって、マルクは短刀を持つ腕を突きだした。
研ぎ澄まされた切っ先は、女の赤い瞳をいっそう鮮血へと染めるはずだった。しかし刃はむなしく空を切り、先刻まで目の前にいた女はどこにもいなくなっていた。
「消えた……!?」
部下たちがざわめき、周囲を見渡す。
入り口。天井。床。壁。どこにも逃げた痕跡などない。大勢の人間が彼らのボスとメイド服の女に注目していた。だが今そこにいるのは、不自然なポーズで短刀を突き出すマルクだけだ。
煙幕や閃光による目くらましすらなく、まるで最初から存在しなかったように忽然と姿を消した。だが、溶けた肉塊や部下が受け取った洋酒瓶は依然としてそこにある。
「くっ……くく……ははははっ!」
予想外。埒外。不可侵ともいえる世の中の道理が覆された決定的瞬間だ。
マルクの胸に去来したのは、かつてないほどの昂揚感だった。
愉快であり痛快。膿んでいた精神へ、強烈な熱が迸る。
これまで培ってきた常識を捨て、先ほどのメイドの言葉を全肯定するには充分すぎるほどの好奇心が湧き立った。
「ヤーグ」
側近の名を呼び、同時に部下から洋酒瓶を奪い取る。
「組織はお前にくれてやる」
フタを開け、瓶を傾ける。部下たちが止める間もなく、注ぎ口からこぼれる薄茶色の液体がマルクの歪んだ口の中へと吸い込まれていった。
「ぼ、ボス!?」
悲鳴のような側近の声が聞こえ、他の部下達からも信じられないという視線を浴びる。それらを一切無視して、人間が溶けた謎の液体を猛然と喉へと流し込んだ。
心臓が大きく弾み、身体の内側に火がともされる。炎は血管を通じて全身に燃え広がった。
意識が酩酊し、天地が逆転する。視界がかすれ、声を出すことも、呼吸すらも面倒になる。
しかし彼の唇は、形が崩れるその瞬間まで楽しげに捻じ曲がっていた。
***
気が付くと、マルクはまったく見覚えのない場所にいた。
しんと静まり返った、ほの暗い空間だ。巨大な書架に左右を囲まれ、仰向けに寝かされている。
書架は最上段が視認できないほどうず高く、天井には夜空と星々がまたたいていた。
(どこだ、ここは……)
思考にはモヤがかかり、ハッキリした事が思い出せない。
奇妙な女から酒らしき物を受け取り、興奮に任せて一気に飲み干した。それから先の記憶がプツリと途絶えている。
ふらつく頭を支えながら上半身を起こすと、違和感があった。
(ん……なんだ、この手は)
気だるい気分を支える右手が、記憶にある自分のそれよりも一回りほど縮んでいた。
五本の指は繊細そのもので、肌も白い。まるで女の手だ。
拳を握り締め、開くと、右手も寸分たがわず同じ動作をする。
「これは……」
女の声が感嘆をこぼし、マルクは瞠目して喉元をさすった。
「……そういう、ことか?」
これまで自分が発してきた声とはまるで違う。軽く柔らかみのある声は少女のようだ。
おぼろげながら、状況がだんだんつかめてきた。
視線を下げると、あの気弱そうな女と同じ、紺色と白のオーソドックスなメイド服を着ていた。胸部には膨らみがあり、乱雑に掴むと弾力と同時に多少の痛みが走った。
本物だ。
「新しいカラダの具合はどうだ?」
ハツラツとした男の声がこだまし、マルクは顔を上げる。
いつからそこにいたのか、果てしないほど長い廊下に、紳士服姿の若い男が佇んでいた。
丸眼鏡の向こうにある双眸を細め、短髪の男が後ろ手に組んだまま近づいてくる。
自信に満ち溢れた、支配者としての余裕が滲み出た笑みだった。
「可愛い顔にしてやったのに、酷い目つきだな。鏡を見るか?」
「……興味がない」
男の後ろには、先刻のメイド服の女もいる。
「あ、あの、ようこそおいでくださいました……歓迎いたします」
相変わらず何かに怯えているような眼差しのままだが、声には多少の落ち着きがあった。
それはつまり、ここが彼女にとって安心できる場所であり、信頼できる人間が傍にいるということだ。
「ここが、退屈とは無縁の世界?」
無限とも思えるほどの膨大な数の書籍を敷き詰めた、巨大な本棚。
物音は一つとしてなく、天井には満天の星空が広がっている。
心の療養をするなら上出来な空間だ。ただしそれは一時的なものだろう。
本を楽しむことも、星を眺めることも、いつかは飽きる。本の内容や種類にかかわらず、読む行為そのものが億劫に感じるのだ。
「期待はずれだな……元の世界の方がまだマシじゃないか?」
嘆息と共に睨みつけると、メイド服の女は小さな悲鳴を上げ丸眼鏡の男の背に隠れた。
男は大仰な身振り手振りで、わざとらしく驚いてみせる。
「テイミー。もしかして、ちゃんと説明せずにつれてきたのか?」
「え? あの、とりあえず連れて来いって言ったのは、ご主人様では……」
「んん? そうだったかなぁ?」
ニヤニヤとしたまま、男が再びマルクに視線を移す。
「申し訳ないねマルク。さぞかし混乱しているだろう」
「……では、君が俺の疑問を解き明かしてくれるのかな?」
冷静な態度を崩さないマルクだが、指摘どおり多少なりとも困惑していた。だが今の状況を楽しんでいる気持ちもあった。
男からは、同類の匂いがする。
退屈な人生に嫌気が差し、破滅的な刺激を求める狂人の笑みだ。
「あらゆる世界は、女神によって創造されている」
男が笑みを崩さないまま、わけのわからないことを口走る。
「ほう?」
「彼女が力を奪われ、絶望する瞬間を目にしたい。協力してくれるかな?」
「乗ろう」
女になった自分になど興味はないし、神を持ち出されたところで信仰心などカケラもない。
だが、創造主の立場を危ぶませる事が出来るのなら。
それは、素晴らしく魅力的な計画だった。
タイトルや設定でピンと来た人は屋上握手です
ダークな展開が欲しいとずっと思っていました。

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