メイドと栞と退屈な書斎4
止まってた連作を更新します
謎の男にそそのかされ、異世界を渡り歩く力を得た主人公の憑依物語です。
新世界突入します
4頁「濃霧に包まれた世界」
「英雄の力を奪う方法だが、基本的には、ミナツちゃんにしたのと似た行動で問題はない」
幸せな人生を蹂躙された少女の名前を出しつつ、丸眼鏡の男は書籍を机の上に積み重ねた。
鮮やかな薔薇色。晴天を思わせる青。荒野の土色に、若草色。色とりどりの装丁がなされた本が、次々に積み重なっていく。
「異世界の住人に乗り移り、英雄から希望を奪う。そうすれば、おのずと女神の加護は失われるはずだ」
マルクは真紅の本を手に取り、やはり白紙の広がるページを見開いた。【真夏日の世界】の本と同じだ。
書斎世界からでは、本の中身……異世界のことはまったくわからない。どんな場所で、どんな世界情勢なのか。
「不安かな?」
胸中を言い当てるかのように、丸眼鏡の男がにこやかに問う。
そんな挑発じみた笑顔に、マルクは涼しい顔で答えた。
「心構えが出来ないのは不便だ」
だが、と言葉を続け、白紙のページに栞を挟む。
「心構えの出来る人生は、とても退屈だな」
「ハハハッ。では存分に楽しんできてくれ」
痛快そうに笑う男を尻目に、本を閉じる。
瞬間、視界が暗転し、笑い声をはじめとした一切の音が消えた。
マルクの意識は書斎世界からはじき飛ばされ、再び見知らぬ世界へと旅立った。
そこは、霧に包まれた森の中だった。
濃霧と巨木が日光を遮り、どこか幻想的な空気に満たされている。
周囲に人影はない。名も知れぬ草が見渡す限り生い茂り、木々がひたすら乱立していた。
樹木の隙間は漂う濃霧で白くかすれ、鳥や虫の声すら息絶えた静寂の森林はまるで夢の中で見る光景に近い。
「うぅ~、寒いですぅ」
情けない声に振り向くと、浴衣姿のテイミーが自分の肩を抱きすくめて震えていた。赤い瞳に涙が滲み出し、何かを訴えるように、マルクをじっと見つめている。
魂だけの存在となったマルクには、寒さや暑さが感じられない。霧という自然現象は知っていたが、ここまで濃密なものを見るのは初めてだ。
テイミーの訴えは黙殺し、マルクは輪郭の失われた足で森の中を歩き出す。
「ど、どちらへ?」
「まずは、カラダを調達する」
英雄の存在や世界情勢など、知るべきことは山ほどある。異世界に舞い降りたマルクの取る行動は、何はなくとも現地の人間に乗り移ることだった。
寒い寒いと呟き続けるテイミーを無視して歩き続けると、ほどなくして地面にうずくまる女を見つけた。、
濃霧に紛れてしまうような白いワンピースを着て、頭に巻いた手ぬぐいまでもが無地の白。かといって純白と呼ぶには程遠く、ところどころに年季の入った黒ずみが浮かんでいた。
傍らには質素な編み籠が置かれ、さまざまな種類の草が詰め込まれている。すり潰して薬にでもするのだろうか。
薬草を摘む動作は緩慢としていて、表情も硬く暗い。手ぬぐいからこぼれ落ちる灰色の髪が、女の薄幸そうな雰囲気を強調していた。
「神様……」
女が両手を組み、姿の見えない存在に祈りを捧げる。
その儚げな空気を壊すように、間抜けな音が響いた。
「へ……へぷちっ!」
木陰に隠れていたテイミーがくしゃみをし、俯いていた女が頭をもたげる。この世界にとって異様な服装なのか、テイミーの浴衣姿に女はあからさまな不審を浮かべた。
逃げられでもしたら、また新しいカラダを探さなければならない。
マルクは観察を止め、彼女の人生を奪うことにした。
***
この国は神に見捨てられたのかもしれない。
フィリアは薬草を集める手を休め、戦場に旅立った恋人の安否に胸を痛めた。
隣国がフィリアの祖国に牙を剥いてから、もう数ヶ月が経とうとしている。前線は徐々に押し広げられ、首都の陥落も近いと噂されていた。
相手はまるで盗賊のような連中だ。
家を焼き、人を殺し、女を犯し、あらゆる品物を略奪する。フィリアの村も戦渦に巻き込まれ、多くのものを失った。
恋人の助けによって命からがら地獄を逃れ、二人は修道院に身を寄せるようになった。だが同じように逃げ込んでくる人間は後を絶たず、最近では戦線で傷を負った兵士も流れ着くほどだ。
彼は日増しになる嘆きの声に耐え切れず、とうとう自ら戦いに身を投じてしまった。一人でも多くの人を救うために剣を取り、義勇兵に志願したのだ。
しかし戦況は圧倒的にこちらが不利。華々しい凱旋など夢のまた夢だろう。
訃報が入るのは明日か。明後日か。
英雄が物語から現われでもしない限り、フィリアが愛しい者と笑い合う時間は戻ってこない。
「神様……」
修道女リリィの見よう見まねで両手を組む。
(どうか、私の愛した男を、私から奪わないで下さい)
身の引き裂かれる痛みを堪えながら、フィリアは天へ祈りを捧げた。
「へ……へぷちっ!」
森厳な空気を乱す、気の抜けた声が驚くほど近くから聞こえた。
顔を上げると、派手な色をした見たこともない服を着た少女が木陰に佇んでいる。フィリアに見られ、少女は唇を慌しく動かしていた。
脅威こそ感じられないが、奇妙な格好が不審を募らせる。
あなたは誰? そう訊ねようとしたが、代わりにまったく違う言葉が出てきた。
「ひっ……ぐっ……!?」
濃霧がカラダに張り付いたような冷たさに、フィリアが息を詰まらせる。
見えない何かが、全身を覆っていた。
呼吸が出来ず、暴力的なまでの冷気に意識を握りつぶされる。
それは強烈な苦しみでありながら、一瞬の出来事だった。
「あっ、ああ……っ…………」
カラダを大きく震えさせて、やがて森の中に静寂が戻る。
フィリアはしばらくのあいだ浅い呼吸を繰り返したあと、うっすらと唇を吊り上げた。
「…………戦時中か。まさに英雄が渇望される世界だな」
物語でも楽しむように世界情勢を呟き、続けて、先ほどの不審者に視線をやる。
「テイミー、キミは俺の邪魔をしに来たのか?」
「も、申し訳ありませんー。け、けして、そんなつもりじゃなくて……」
フィリアの咎めるような目つきに、浴衣姿の少女はぺこぺこと頭を何度も下げた。部下がいれば軽い罰でも与えていた場面だが、村を焼き出された『フィリア』にそんな権力などあるはずもない。
本来ならありえない思考。仕草。
それらすべてが、これまでの彼女を否定していた。
『フィリア』の生きてきた二十年余りの人生は、マルクが引き継いだ。
戦争の悲しみ。恋人との別れ。幸せとは言いがたい記憶が次々に浮かんでは消え、それらを経験として実感する。
「戦禍を免れ修道院へ……か。しかし、英雄と呼ばれる人間はどこにいる?」
マルクの考えでは、英雄はすでに英雄として活躍しているはずだった。しかしいくら記憶を紐解いても、救国の勇者と呼ぶべき人物像は浮かび上がらない。
フィリアの知識にはないのか、あるいは、まだ英雄として成長しきっていないのか。
「……とりあえず戻るか」
フィリアは修道院に身を寄せ、今は足りなくなった薬草の採取をしていた途中だった。今も修道女をはじめとした有志が怪我人の手当てに奔走している。
老人から子供、戦場帰りの騎士まで、あらゆる人間が揃っている。情報を集めるのなら、修道院に戻る方が都合がいい。
「テイミー。君はどうする」
浴衣は、この【濃霧に包まれた世界】には存在しない不思議な服装だ。
このまま修道院に連れて行くと、悪目立ちをしてしまう。
「私は、マルク様を見守るのが役目ですので……えっと、なるべく人目につかないよう、離れた場所から見ていますね」
「あぁ、それがいい。君が同じ過ちを繰り返す無能ではないことを、期待する」
「わ、わかっていますよぉ……」
無能呼ばわりされたことに腹を立てているような、拗ねた返事の仕方だった。
「ふん……」
フィリアは薬草の入った籠を一瞥し、皮肉な笑みを浮かべてそれを踏みつぶした。
鬱蒼とした木立が突然開け、屋根に十字架を刺した建物が濃霧の中から浮かび上がる。
神秘性すら感じる光景だが、修道院を取り囲む声はその厳かな雰囲気を台無しにしていた。
「足がぁ! 俺の足がぁ!」
「どなたか子供を見かけませんでしたか!? 小さな女の子です!」
「シスター・リリィ! 血が止まりません! このままじゃ……!」
「どうせ……どうせ死ぬんだ……俺たちは、みんな、ここで」
悲鳴と嘆きに満ちた怒号が飛び交い、動けるわずかな人間が地に伏せる人々の合間を縫うように駆け回る。
全身に包帯を巻いた者。松葉杖をつく片足の男。泣き叫ぶわが子を抱き、力なくあやす女。抜け殻のように虚空を見つめて動かない老人。絵画で見るようなおどろおどろしさこそないが、地獄のような光景だった。
誰もが生きる希望を失い、死神の鎌が振り下ろされる瞬間を待つ屍の山。そんな中で、十人にも満たない人間が倍以上はくだらない重軽傷者たちの世話をしている。
黒服の修道士。医療道具の入ったカバンを持つ太った男。フィリアと同じ年頃の少女。
落ち込む人間を励まし、傷の手当てを行う連中の目は、とても力強く頼もしい。絶望的な状況に抗い、覆そうという気概に溢れていた。
(うん?)
服の裾が小さな力で引かれ、何気なく振り返る。
小さな子供だ。すがりつくように固く握られた手の持ち主は涙で顔を歪ませ、しゃくり声を上げている。
「ふぃり……ふぃりあ……ひぐっ、うっ、えううっ」
泣きはらした顔から再び滴をこぼし、子供がフィリアの名前を呼んだ。
「……どうしたの?」
優しい声を出し、頭を撫でながら目線の高さを合わせる。
彼が修道院で暮らす孤児であること。そして、フィリアを姉のように慕っていることはすぐに記憶から抽出され、自然とフィリアらしい仕草になった。
「あの、あのね、おきたら、ふぃりあがいなくて……」
つたない言葉で己の悲しみを懸命に伝えようとする子供に、フィリアは笑顔を貼り付ける。
その裏には、彼女がずっとひた隠しにしていた苛立ちを抱えていた。
(いつもいつもいつも……)
「思い出す」と同時に、相手に抱く感情も共感する。
戦火に焼かれ、両親を失い、この年で天涯孤独になってしまった幼い少年。
憐れだと思う。しかし、フィリアは自分のことで手いっぱいだった。
故郷を失った悲しみ。絶望しかない世界情勢。恋人との別れ。
誰かの支えとなる余裕などありはしない。なのに少年は、こちらの気持ちなど知らずすり寄ってくる。
「……ねぇ」
普段の彼女なら隠しとおせる小さな悪意は、この瞬間に限り、あっけなく燃え上がった。
頭を撫でる少年の髪を握り、乱暴に引き上げる。
「いだっ!」
「どうしてキミは、私を呼び捨てにするの? お姉さん、でしょ?」
戦時下に年功序列など持ち出すほうがどうかしている。だが、フィリアの悪感情はますます溢れ、止まらない。
「優しくされたいなら、シスター・リリィがいるじゃない。どうして私なの? どうして君みたいなエロガキを慰めてあげなきゃいけないの?」
「ふぃり、あ……?」
「知っているよぉ? 甘える振りして、私のおっぱいに触っているでしょ? 私の恋人が前線に行った時、こっそり喜んでいたでしょ? これでフィリアを独り占めできる。そんなこと考えていたんでしょ?」
髪をひっぱる手は力強さを増し、肩は爪が食い込むほど強く握る。
少年の目は恐怖に彩られ、先ほどまで向けていた信頼の眼差しは完全に消え失せていた。
「いた……やめてふぃりあ……! なにいってるのか、わかんない……!」
「わからない? そっか。無力な上に無能だなんて、使えないね。君のカラダを引き裂いて、その血肉をここの人たちに分けてあげたほうがよっぽど有意義なんじゃないかな」
フィリアは腰に手を添え、ナイフを引き抜こうとした。……だが、彼女の手は空を切り、遅れて、ナイフなど持っていなかったことを思い出す。
「何をしている!」
横合いから割り込んだ腕が髪を掴んでいた手を取り、引き離す。
凄まじい力に、フィリアの細腕が微かに痛みを訴えた。不快に思いながら振り向くと、ポニーテイルを結んだ鎧姿の女がいた。
「貴様、こんな子供に何をしようとした……!」
手負いの獣が吼えるような強い口調で、女騎士が怒鳴る。その左肩から先にあるべきはずの腕は存在していなかった。
彼女のことも、フィリアはもちろん「知って」いる。
「怒らないでよ、ジャネット。ちょっとした冗談じゃない……ねぇ?」
少年に笑顔を差し向けるが、彼はただ怯えた目を向け、無言で走り去っていった。
信頼を自分の手で突き崩し、失われていく感覚に背筋が震える。フィリアはもう二度と、あの少年と言葉を交わすことはないだろう。
「貴様……何を笑っている? 気でも狂ったか!」
「ふふふ、戦場から逃げてきた騎士崩れが偉そうに」
「なんだとっ!」
「二人とも、おやめなさい!」
猛り狂う女と嘲笑する女の間に、凛とした声が響く。
白い服をまとった若い修道女が、怒りを宿した面持ちで近づいてきた。
「リリィ……」
ジャネットが呻くように呟き、柄に掛けていた右手を離す。
リリィと呼ばれた修道女の顔を正面から見据えた瞬間、マルクは直感で理解した。
(彼女が英雄か……)
野戦病院と化した修道院を取りまとめる、実質的なリーダー。
シスター・リリィこそ、この【濃霧に包まれた世界】の希望である。
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謎の男にそそのかされ、異世界を渡り歩く力を得た主人公の憑依物語です。
新世界突入します
4頁「濃霧に包まれた世界」
「英雄の力を奪う方法だが、基本的には、ミナツちゃんにしたのと似た行動で問題はない」
幸せな人生を蹂躙された少女の名前を出しつつ、丸眼鏡の男は書籍を机の上に積み重ねた。
鮮やかな薔薇色。晴天を思わせる青。荒野の土色に、若草色。色とりどりの装丁がなされた本が、次々に積み重なっていく。
「異世界の住人に乗り移り、英雄から希望を奪う。そうすれば、おのずと女神の加護は失われるはずだ」
マルクは真紅の本を手に取り、やはり白紙の広がるページを見開いた。【真夏日の世界】の本と同じだ。
書斎世界からでは、本の中身……異世界のことはまったくわからない。どんな場所で、どんな世界情勢なのか。
「不安かな?」
胸中を言い当てるかのように、丸眼鏡の男がにこやかに問う。
そんな挑発じみた笑顔に、マルクは涼しい顔で答えた。
「心構えが出来ないのは不便だ」
だが、と言葉を続け、白紙のページに栞を挟む。
「心構えの出来る人生は、とても退屈だな」
「ハハハッ。では存分に楽しんできてくれ」
痛快そうに笑う男を尻目に、本を閉じる。
瞬間、視界が暗転し、笑い声をはじめとした一切の音が消えた。
マルクの意識は書斎世界からはじき飛ばされ、再び見知らぬ世界へと旅立った。
そこは、霧に包まれた森の中だった。
濃霧と巨木が日光を遮り、どこか幻想的な空気に満たされている。
周囲に人影はない。名も知れぬ草が見渡す限り生い茂り、木々がひたすら乱立していた。
樹木の隙間は漂う濃霧で白くかすれ、鳥や虫の声すら息絶えた静寂の森林はまるで夢の中で見る光景に近い。
「うぅ~、寒いですぅ」
情けない声に振り向くと、浴衣姿のテイミーが自分の肩を抱きすくめて震えていた。赤い瞳に涙が滲み出し、何かを訴えるように、マルクをじっと見つめている。
魂だけの存在となったマルクには、寒さや暑さが感じられない。霧という自然現象は知っていたが、ここまで濃密なものを見るのは初めてだ。
テイミーの訴えは黙殺し、マルクは輪郭の失われた足で森の中を歩き出す。
「ど、どちらへ?」
「まずは、カラダを調達する」
英雄の存在や世界情勢など、知るべきことは山ほどある。異世界に舞い降りたマルクの取る行動は、何はなくとも現地の人間に乗り移ることだった。
寒い寒いと呟き続けるテイミーを無視して歩き続けると、ほどなくして地面にうずくまる女を見つけた。、
濃霧に紛れてしまうような白いワンピースを着て、頭に巻いた手ぬぐいまでもが無地の白。かといって純白と呼ぶには程遠く、ところどころに年季の入った黒ずみが浮かんでいた。
傍らには質素な編み籠が置かれ、さまざまな種類の草が詰め込まれている。すり潰して薬にでもするのだろうか。
薬草を摘む動作は緩慢としていて、表情も硬く暗い。手ぬぐいからこぼれ落ちる灰色の髪が、女の薄幸そうな雰囲気を強調していた。
「神様……」
女が両手を組み、姿の見えない存在に祈りを捧げる。
その儚げな空気を壊すように、間抜けな音が響いた。
「へ……へぷちっ!」
木陰に隠れていたテイミーがくしゃみをし、俯いていた女が頭をもたげる。この世界にとって異様な服装なのか、テイミーの浴衣姿に女はあからさまな不審を浮かべた。
逃げられでもしたら、また新しいカラダを探さなければならない。
マルクは観察を止め、彼女の人生を奪うことにした。
***
この国は神に見捨てられたのかもしれない。
フィリアは薬草を集める手を休め、戦場に旅立った恋人の安否に胸を痛めた。
隣国がフィリアの祖国に牙を剥いてから、もう数ヶ月が経とうとしている。前線は徐々に押し広げられ、首都の陥落も近いと噂されていた。
相手はまるで盗賊のような連中だ。
家を焼き、人を殺し、女を犯し、あらゆる品物を略奪する。フィリアの村も戦渦に巻き込まれ、多くのものを失った。
恋人の助けによって命からがら地獄を逃れ、二人は修道院に身を寄せるようになった。だが同じように逃げ込んでくる人間は後を絶たず、最近では戦線で傷を負った兵士も流れ着くほどだ。
彼は日増しになる嘆きの声に耐え切れず、とうとう自ら戦いに身を投じてしまった。一人でも多くの人を救うために剣を取り、義勇兵に志願したのだ。
しかし戦況は圧倒的にこちらが不利。華々しい凱旋など夢のまた夢だろう。
訃報が入るのは明日か。明後日か。
英雄が物語から現われでもしない限り、フィリアが愛しい者と笑い合う時間は戻ってこない。
「神様……」
修道女リリィの見よう見まねで両手を組む。
(どうか、私の愛した男を、私から奪わないで下さい)
身の引き裂かれる痛みを堪えながら、フィリアは天へ祈りを捧げた。
「へ……へぷちっ!」
森厳な空気を乱す、気の抜けた声が驚くほど近くから聞こえた。
顔を上げると、派手な色をした見たこともない服を着た少女が木陰に佇んでいる。フィリアに見られ、少女は唇を慌しく動かしていた。
脅威こそ感じられないが、奇妙な格好が不審を募らせる。
あなたは誰? そう訊ねようとしたが、代わりにまったく違う言葉が出てきた。
「ひっ……ぐっ……!?」
濃霧がカラダに張り付いたような冷たさに、フィリアが息を詰まらせる。
見えない何かが、全身を覆っていた。
呼吸が出来ず、暴力的なまでの冷気に意識を握りつぶされる。
それは強烈な苦しみでありながら、一瞬の出来事だった。
「あっ、ああ……っ…………」
カラダを大きく震えさせて、やがて森の中に静寂が戻る。
フィリアはしばらくのあいだ浅い呼吸を繰り返したあと、うっすらと唇を吊り上げた。
「…………戦時中か。まさに英雄が渇望される世界だな」
物語でも楽しむように世界情勢を呟き、続けて、先ほどの不審者に視線をやる。
「テイミー、キミは俺の邪魔をしに来たのか?」
「も、申し訳ありませんー。け、けして、そんなつもりじゃなくて……」
フィリアの咎めるような目つきに、浴衣姿の少女はぺこぺこと頭を何度も下げた。部下がいれば軽い罰でも与えていた場面だが、村を焼き出された『フィリア』にそんな権力などあるはずもない。
本来ならありえない思考。仕草。
それらすべてが、これまでの彼女を否定していた。
『フィリア』の生きてきた二十年余りの人生は、マルクが引き継いだ。
戦争の悲しみ。恋人との別れ。幸せとは言いがたい記憶が次々に浮かんでは消え、それらを経験として実感する。
「戦禍を免れ修道院へ……か。しかし、英雄と呼ばれる人間はどこにいる?」
マルクの考えでは、英雄はすでに英雄として活躍しているはずだった。しかしいくら記憶を紐解いても、救国の勇者と呼ぶべき人物像は浮かび上がらない。
フィリアの知識にはないのか、あるいは、まだ英雄として成長しきっていないのか。
「……とりあえず戻るか」
フィリアは修道院に身を寄せ、今は足りなくなった薬草の採取をしていた途中だった。今も修道女をはじめとした有志が怪我人の手当てに奔走している。
老人から子供、戦場帰りの騎士まで、あらゆる人間が揃っている。情報を集めるのなら、修道院に戻る方が都合がいい。
「テイミー。君はどうする」
浴衣は、この【濃霧に包まれた世界】には存在しない不思議な服装だ。
このまま修道院に連れて行くと、悪目立ちをしてしまう。
「私は、マルク様を見守るのが役目ですので……えっと、なるべく人目につかないよう、離れた場所から見ていますね」
「あぁ、それがいい。君が同じ過ちを繰り返す無能ではないことを、期待する」
「わ、わかっていますよぉ……」
無能呼ばわりされたことに腹を立てているような、拗ねた返事の仕方だった。
「ふん……」
フィリアは薬草の入った籠を一瞥し、皮肉な笑みを浮かべてそれを踏みつぶした。
鬱蒼とした木立が突然開け、屋根に十字架を刺した建物が濃霧の中から浮かび上がる。
神秘性すら感じる光景だが、修道院を取り囲む声はその厳かな雰囲気を台無しにしていた。
「足がぁ! 俺の足がぁ!」
「どなたか子供を見かけませんでしたか!? 小さな女の子です!」
「シスター・リリィ! 血が止まりません! このままじゃ……!」
「どうせ……どうせ死ぬんだ……俺たちは、みんな、ここで」
悲鳴と嘆きに満ちた怒号が飛び交い、動けるわずかな人間が地に伏せる人々の合間を縫うように駆け回る。
全身に包帯を巻いた者。松葉杖をつく片足の男。泣き叫ぶわが子を抱き、力なくあやす女。抜け殻のように虚空を見つめて動かない老人。絵画で見るようなおどろおどろしさこそないが、地獄のような光景だった。
誰もが生きる希望を失い、死神の鎌が振り下ろされる瞬間を待つ屍の山。そんな中で、十人にも満たない人間が倍以上はくだらない重軽傷者たちの世話をしている。
黒服の修道士。医療道具の入ったカバンを持つ太った男。フィリアと同じ年頃の少女。
落ち込む人間を励まし、傷の手当てを行う連中の目は、とても力強く頼もしい。絶望的な状況に抗い、覆そうという気概に溢れていた。
(うん?)
服の裾が小さな力で引かれ、何気なく振り返る。
小さな子供だ。すがりつくように固く握られた手の持ち主は涙で顔を歪ませ、しゃくり声を上げている。
「ふぃり……ふぃりあ……ひぐっ、うっ、えううっ」
泣きはらした顔から再び滴をこぼし、子供がフィリアの名前を呼んだ。
「……どうしたの?」
優しい声を出し、頭を撫でながら目線の高さを合わせる。
彼が修道院で暮らす孤児であること。そして、フィリアを姉のように慕っていることはすぐに記憶から抽出され、自然とフィリアらしい仕草になった。
「あの、あのね、おきたら、ふぃりあがいなくて……」
つたない言葉で己の悲しみを懸命に伝えようとする子供に、フィリアは笑顔を貼り付ける。
その裏には、彼女がずっとひた隠しにしていた苛立ちを抱えていた。
(いつもいつもいつも……)
「思い出す」と同時に、相手に抱く感情も共感する。
戦火に焼かれ、両親を失い、この年で天涯孤独になってしまった幼い少年。
憐れだと思う。しかし、フィリアは自分のことで手いっぱいだった。
故郷を失った悲しみ。絶望しかない世界情勢。恋人との別れ。
誰かの支えとなる余裕などありはしない。なのに少年は、こちらの気持ちなど知らずすり寄ってくる。
「……ねぇ」
普段の彼女なら隠しとおせる小さな悪意は、この瞬間に限り、あっけなく燃え上がった。
頭を撫でる少年の髪を握り、乱暴に引き上げる。
「いだっ!」
「どうしてキミは、私を呼び捨てにするの? お姉さん、でしょ?」
戦時下に年功序列など持ち出すほうがどうかしている。だが、フィリアの悪感情はますます溢れ、止まらない。
「優しくされたいなら、シスター・リリィがいるじゃない。どうして私なの? どうして君みたいなエロガキを慰めてあげなきゃいけないの?」
「ふぃり、あ……?」
「知っているよぉ? 甘える振りして、私のおっぱいに触っているでしょ? 私の恋人が前線に行った時、こっそり喜んでいたでしょ? これでフィリアを独り占めできる。そんなこと考えていたんでしょ?」
髪をひっぱる手は力強さを増し、肩は爪が食い込むほど強く握る。
少年の目は恐怖に彩られ、先ほどまで向けていた信頼の眼差しは完全に消え失せていた。
「いた……やめてふぃりあ……! なにいってるのか、わかんない……!」
「わからない? そっか。無力な上に無能だなんて、使えないね。君のカラダを引き裂いて、その血肉をここの人たちに分けてあげたほうがよっぽど有意義なんじゃないかな」
フィリアは腰に手を添え、ナイフを引き抜こうとした。……だが、彼女の手は空を切り、遅れて、ナイフなど持っていなかったことを思い出す。
「何をしている!」
横合いから割り込んだ腕が髪を掴んでいた手を取り、引き離す。
凄まじい力に、フィリアの細腕が微かに痛みを訴えた。不快に思いながら振り向くと、ポニーテイルを結んだ鎧姿の女がいた。
「貴様、こんな子供に何をしようとした……!」
手負いの獣が吼えるような強い口調で、女騎士が怒鳴る。その左肩から先にあるべきはずの腕は存在していなかった。
彼女のことも、フィリアはもちろん「知って」いる。
「怒らないでよ、ジャネット。ちょっとした冗談じゃない……ねぇ?」
少年に笑顔を差し向けるが、彼はただ怯えた目を向け、無言で走り去っていった。
信頼を自分の手で突き崩し、失われていく感覚に背筋が震える。フィリアはもう二度と、あの少年と言葉を交わすことはないだろう。
「貴様……何を笑っている? 気でも狂ったか!」
「ふふふ、戦場から逃げてきた騎士崩れが偉そうに」
「なんだとっ!」
「二人とも、おやめなさい!」
猛り狂う女と嘲笑する女の間に、凛とした声が響く。
白い服をまとった若い修道女が、怒りを宿した面持ちで近づいてきた。
「リリィ……」
ジャネットが呻くように呟き、柄に掛けていた右手を離す。
リリィと呼ばれた修道女の顔を正面から見据えた瞬間、マルクは直感で理解した。
(彼女が英雄か……)
野戦病院と化した修道院を取りまとめる、実質的なリーダー。
シスター・リリィこそ、この【濃霧に包まれた世界】の希望である。

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