メイドと栞と退屈な書斎5
謎の男にそそのかされ、異世界を渡り歩く力を得た主人公の憑依物語です。
濃霧に包まれた森と、戦時中の中世っぽい世界です
5頁「帝国と王国の騎士」
マルクは考える。英雄とは何か?
どのような逆境にもくじけることなく、いかなる不利な状況をも覆す、勝利を約束された存在。それが、英雄と呼ばれるに相応しい存在だ。
仮にリリィへ憑依をして修道院の人間を皆殺しにしたところで、彼女はきっと、絶望を糧にして再び立ち上がるだろう。
生半可に手を出したところで、英雄が簡単に心を折るはずがないと信じていた。
火をおこすための枯れ枝を濃霧の森で探すという罰を与えられた『フィリア』は、地面に視線を落としたままそんなことを考えていた。
聖女リリィを陥落するためには、何をすべきか。フィリアの記憶には、彼女が優しい人間であるということしかわからない。
力も立場も弱く、英雄の弱点を探るための知識すら持たない肉体に、これ以上とどまる理由はなかった。
「……それで? 何のつもりかな?」
背後から放たれる殺気の持ち主へ、振り向くことなく問いかける。
隻腕の女騎士ジャネットは、無力なフィリアの背に研ぎ澄まされた刃の先端を突きつけていた。
「戦場で、今のお前と良く似た目の女と出会った事がある」
ジャネットの声は無機質で、とても固い。
だが言葉の奥底には、炎の揺らめきにも近い激しい感情が潜んでいた。
「その女は、卑怯者でな。勝利のためなら手段を選ばないような、騎士の風上にも置けない相手だった。……私の片腕を奪った時のヤツの笑い声は、今でも耳に残っている」
「その女と私が、同じ目をしていると?」
「ああ、私が討つべき、悪党の眼差しだ!」
獣の勘、とでもいうべきか。
戦場を知るジャネットは、すでにフィリアがフィリアでないことを見抜いていた。
だが。
「残念ながら、私は勝利や敗北に興味はないのです」
さらりと告げられた、予期しなかった言葉にジャネットの反応が遅れる。
その一瞬でフィリアは反転し、これまで集めていた編み籠の中身を女騎士に向けて一気に放った。
腐葉土と枯れ枝がジャネットの視界を奪い、背に向けていた刃の切っ先がぶれる。
目くらましが終わらないうちに、フィリアは霧深い森の奥へと走り去っていった。
*
「待てっ!」
霧の中へ消えたフィリアを追い、ジャネットは駆け出した。
卑怯者の女騎士に片腕を奪われた彼女の重心は、一般人のそれとかなり異なる。普通ならば走るどころか、歩くことすら思うようにならないはずだが、ジャネットはたゆまぬ努力のすえ傭兵にも遅れをとらない速度で走ることが可能だった。
第一線こそ退いてしまったが、自分はまだ戦える。そう信じていた。
(そうだ……私が、私とリリィが、この国を救うのだ!)
修道女リリィは心優しく、そして勇気ある女性だ。
傷ついた者を癒す傍ら、戦意を失っていない人間を再び立ち上がらせ、敵の喉元を付く準備を着実に整えている。ここで反撃の火種を絶やすわけには行かなかった。
フィリアは間違いなく裏切り者だ。
もし敵に修道院の場所が明かされでもしたら、今の兵力ではとても太刀打ちできない。そうなる前に、彼女を捕らえなければならなかった。
あるいは、殺すしか。
(問題ない……汚れ役は、私が背負う)
一度は戦場から逃げた自分に、もう一度戦う意思を与えてくれたのはリリィだ。
彼女のためならば、騎士の誇りも投げ捨てよう。
「フィリア! 出て来い! これ以上の抵抗は無意味だ!」
先ほどは不意をつかれたが、彼我の実力差は明らかだ。
ジャネットは油断なく木立の隙間を進み、どのような罠が来てもうろたえまいと視線を走らせた。
ほどなくして、樹木に寄りかかる人影を捉えた。
フィリアは幹の根元に背中を預け、ぐったりとしている。ジャネットを振り切るため相当無理をしたのか、呼吸がずいぶん荒い。
「……諦めろ。もう逃げられんぞ」
ジャネットは柄を握り締め、刃を彼女に向けて振り下ろすべきかどうか迷った。
修道院に来てから日は浅いが、フィリアがどういう人間なのかおおむね理解している。
恋人を愛し、人並みの良識と心優しさを持った、ごく普通の村娘だ。子供を痛めつけて笑えるような心の持ち主ではない。
彼女が豹変した理由は、なんだ? それを突き止めるべきだ。
『ならば教えてやろう』と。
耳朶を介さずに声が響き、全身が寒気に襲われた。
「ぐっ!?」
刃を腹に差し込まれたような、強引な挿入感に息が詰まる。痛みこそないが、意識が明滅し、景色が上下左右に揺さぶられる。
「あ、あああっ!」
全身を痙攣させ、女騎士の視界が暗転し。
次に目を開いたとき、彼女の持つ意識や記憶は全て『彼』へと強制的に譲り渡された。
無力な小娘のカラダを捨て、新たに手に入れた肉体と意識を同調させる。
フィリアの知識にはなかった情報が次々に流れ込み、ジャネットが修道女リリィに心酔する一人だということも知る事が出来た。
リリィは武力こそ持たないが、多くの人間を惹き付ける発言力を持っている。
カリスマ性のある宗教家が人々を扇動し、新たな戦争の火種を生み出す。退屈な、よくある話だ。
「生きてこそ得られる栄光のため、今は耐えようと言うわけか……良い判断だ」
どこか嘲笑めいた言葉を漏らし、ジャネットは抜き身のままだった刀剣を慣れた仕草で鞘におさめた。
銃が出回る世界では、長剣など美術品の価値しか残っていない。短刀と扱いは異なり、まして隻腕ともなれば滑らかに納刀できるはずもないのだが、ジャネットの肉体に染み付いた習慣はすんなりと異世界での動作をこなした。
「ん……わた……し……?」
フィリアのまぶたが震え、浮遊感の伴った口調でおもむろに顔を上げる。
「ジャネット……さん?」
うっすらと開かれた彼女の瞳に、女騎士はイビツな薄ら笑いで応えた。
*
霧深い森からいくらか離れた平原には、敵国の一部隊が陣を張っていた。
部隊長であるゲラウ少佐はワインボトルの注ぎ口から直接勝利の美酒を味わいながら、逞しい怒り型を上機嫌に揺らしていた。
周囲の部下達も同じように近隣の村から奪った食事を食い荒らしつつ、少佐の馬鹿笑いに追従する。無骨な男達の酒宴には相手の土地を蹂躙している良心の呵責も、昼夜を問わず戦う前線への心遣いも感じなかった。
「グハハハ! 圧倒的だな、我が軍は!」
ゲラウ少佐の率いる部隊は、後方の支援が主な仕事だ。前線が背後からの強襲を受けぬよう周辺を調査し、時には補給物資を送り届けるための部隊だが、前線を推し進める美しき女将官はその手腕から一度も彼らの部隊を頼った事がない。
後方支援といえば聞こえはいいが、前線部隊が焼き払った場所にあとからやってきて、目についた村落から適度に金と食料を巻き上げるだけの簡単な仕事だ。
戦時下の最中に飲む粗末な酒の味は、王国が誇る最高級の葡萄酒以上に美味く感じた。
「伝令によると、まもなく帝国首都も陥落するとか」
「さすが将軍殿! ……だが、女を独り占めしてしまわれるのは、いかがなものか」
「小官も同意であります。せっかく活きの良い女を見つけても、無傷で献上せねばならないというのは……いささか横暴がすぎましょう」
女将官は敵領土で見つけた若く美しい女を『味見』しているらしい。女王陛下直々の命令だというので、表立って異議を唱える人間もいなかった。
以前、規律を破って捕虜の女に手を出した兵士は、口に出すのもおぞましい方法でその女将官に処刑された。
現地に残される女は年寄りや、とても抱くような気にならない醜い者ばかり。仕事は簡単で、自由に飲み食いも出来るが、それだけが唯一の不満だ。
「『用済み』となった女が我等の部隊まで送られるのは一ヵ月後……わずかではありますが、士気が落ち始めています」
「将軍には困ったものだな。我等が後方を固めているからこそ、心置きなく前線で戦えていることを忘れていらっしゃる」
ここがまともな戦場ならば、悩みさえしなかったろう。
しかし美味い酒と美味い食事と多大な暇を与えられているのに、肉欲だけが満たされない状態は、ゲラウ少佐をはじめとした部隊全体が抱えるもどかしさだった。
「し、少佐殿!」
テントの入り口を乱暴に払い、一人の兵士が駆け込んでくる。
「なんだ。無礼であろう!」
「申し訳ありません! 急ぎ、お伝えしたい事が……!」
直立して敬礼するが、兵士の声は上擦っていた。それは上官に怒鳴られたからではないだろうことは、動揺さめやらない顔を見ていれば充分に察せられる。
「何があった? まさか、前線の討ち漏らした部隊が襲ってきたか?」
「そ、その逆です……抵抗勢力の幹部と名乗る女騎士が、我が隊に投降したいと申し入れてきました!」
その報せに、一同がざわめき立った。
投降ではなく、『女』騎士という単語にだ。
*
記憶に従って思惑通りに敵軍の後方部隊と接触したジャネットは、男達から浴びせられる肉欲の視線に気付き人知れず唇を吊り上げた。
彼らと直接言葉を交わしたことはないが、前線部隊との戦いや村を焼かれたフィリアの記憶を思い返せば、おのずと敵軍の品格というものは見えてくる。
王国騎士を名乗っていながら、その実、連中はただの悪党だ。
騎士道などという高潔な精神など持たず、略奪のためにのみ剣をふるう殺人鬼ども。大将と思われる女騎士からして、笑いながらジャネットの片腕を切り落とす残酷な人間だ。
騎士としても、ジャネット自身としても許しがたい、不倶戴天の敵。
その陣営に取り入ろうとする自分が信じられなかった。
戸惑いや怒りの感情がとめどなく溢れ、しかし彼女の心と体を引き継いだ男は情騎士の誇りである長剣を敵陣の中にぞんざいに投げ捨てると、物憂い気に微笑んだ。
「そろそろ指揮官殿にお目通り願いたいのだが」
「いや、しかし……」
「疑う気持ちもわかるが、丸腰のうえに隻腕だ。一体何ができると思う?」
ジャネットはおよそ彼女らしからぬ、相手を試すかのような喋り方で野営陣地の入り口にいた兵士を口説いている。
白旗を掲げるわけでもなく、口先だけの降伏宣言を果たして信じていいものか。戸惑いを浮かべる男の顔には、そうした逡巡が見え隠れしていた。
「それに、手土産も用意してあるんだ」
背後へ視線を促すと、ちょうど二人分の人影が濃霧の中から現れる。浴衣姿のテイミーと、気を失ったフィリアだ。
「ま、また女だっ」
「おかしな格好だが……なんと美しい瞳の持ち主だ」
見張り番とジャネットのやりとりを遠巻きにしていた兵士らが色めき立ち、情欲のこもった眼差しを二人に向ける。
反応の差にいささかムッと来たが、そんな「女として」の感情が生まれること自体が、マルクには新鮮だった
「私が指揮官殿と話している間、彼女たちは自由に使ってくれていい。……見たところ、あまり華のない部隊のようだし、な」
「グハハハハ! 誇り高き帝国騎士が、よもや自国の民を貢ぎ物にするとは!」
そろそろ口説き落とすことができるかと思われた矢先、銅鑼を叩いたような笑い声が陣営の中から響いた。
どよめいていた兵卒が弾かれたように背筋を伸ばし、人垣を二つに割る。
全身に赤銅の鎧をまとった大柄な男は、彼らの間を悠然とした足取りで進んでいた。
「命を掛けて民を守り、皇帝への絶対忠誠を誓った帝国騎士が、いったいどのような心境の変化かな?」
「帝都の陥落も迫った今、忠誠心などブタの餌にも劣ります。なれば、生き延びる可能性に寝返るのは必然でしょう」
本来のジャネットならば頭の片隅にすらよぎらない、あさましい台詞をとうとうと口にする。
指揮官らしき大男は一瞬だけ目を丸くして、すぐにまた哄笑を響かせた。
「グハハハ! 貴様のような帝国騎士がいたとは驚きだ! その考え、我が軍にこそふさわしい!」
「では、私を受け入れていただけると?」
「もちろんだとも。『手土産』ともども、存分に可愛がってやるぞ!」
大男の視線が、乳房の稜線を描くプレートアーマーをいやらしくねめつける。
片腕を失っていようと、ジャネットの持つ気高い魅力はまったく損なわれていないようだ。
「光栄なのですが、私などよりも……」
凛々しく整った顔立ちの女騎士は唇を邪悪に歪め、絶対に言ってはいけない一言を発した。
「美しき修道女に、ご興味はありませんか?」
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濃霧に包まれた森と、戦時中の中世っぽい世界です
5頁「帝国と王国の騎士」
マルクは考える。英雄とは何か?
どのような逆境にもくじけることなく、いかなる不利な状況をも覆す、勝利を約束された存在。それが、英雄と呼ばれるに相応しい存在だ。
仮にリリィへ憑依をして修道院の人間を皆殺しにしたところで、彼女はきっと、絶望を糧にして再び立ち上がるだろう。
生半可に手を出したところで、英雄が簡単に心を折るはずがないと信じていた。
火をおこすための枯れ枝を濃霧の森で探すという罰を与えられた『フィリア』は、地面に視線を落としたままそんなことを考えていた。
聖女リリィを陥落するためには、何をすべきか。フィリアの記憶には、彼女が優しい人間であるということしかわからない。
力も立場も弱く、英雄の弱点を探るための知識すら持たない肉体に、これ以上とどまる理由はなかった。
「……それで? 何のつもりかな?」
背後から放たれる殺気の持ち主へ、振り向くことなく問いかける。
隻腕の女騎士ジャネットは、無力なフィリアの背に研ぎ澄まされた刃の先端を突きつけていた。
「戦場で、今のお前と良く似た目の女と出会った事がある」
ジャネットの声は無機質で、とても固い。
だが言葉の奥底には、炎の揺らめきにも近い激しい感情が潜んでいた。
「その女は、卑怯者でな。勝利のためなら手段を選ばないような、騎士の風上にも置けない相手だった。……私の片腕を奪った時のヤツの笑い声は、今でも耳に残っている」
「その女と私が、同じ目をしていると?」
「ああ、私が討つべき、悪党の眼差しだ!」
獣の勘、とでもいうべきか。
戦場を知るジャネットは、すでにフィリアがフィリアでないことを見抜いていた。
だが。
「残念ながら、私は勝利や敗北に興味はないのです」
さらりと告げられた、予期しなかった言葉にジャネットの反応が遅れる。
その一瞬でフィリアは反転し、これまで集めていた編み籠の中身を女騎士に向けて一気に放った。
腐葉土と枯れ枝がジャネットの視界を奪い、背に向けていた刃の切っ先がぶれる。
目くらましが終わらないうちに、フィリアは霧深い森の奥へと走り去っていった。
*
「待てっ!」
霧の中へ消えたフィリアを追い、ジャネットは駆け出した。
卑怯者の女騎士に片腕を奪われた彼女の重心は、一般人のそれとかなり異なる。普通ならば走るどころか、歩くことすら思うようにならないはずだが、ジャネットはたゆまぬ努力のすえ傭兵にも遅れをとらない速度で走ることが可能だった。
第一線こそ退いてしまったが、自分はまだ戦える。そう信じていた。
(そうだ……私が、私とリリィが、この国を救うのだ!)
修道女リリィは心優しく、そして勇気ある女性だ。
傷ついた者を癒す傍ら、戦意を失っていない人間を再び立ち上がらせ、敵の喉元を付く準備を着実に整えている。ここで反撃の火種を絶やすわけには行かなかった。
フィリアは間違いなく裏切り者だ。
もし敵に修道院の場所が明かされでもしたら、今の兵力ではとても太刀打ちできない。そうなる前に、彼女を捕らえなければならなかった。
あるいは、殺すしか。
(問題ない……汚れ役は、私が背負う)
一度は戦場から逃げた自分に、もう一度戦う意思を与えてくれたのはリリィだ。
彼女のためならば、騎士の誇りも投げ捨てよう。
「フィリア! 出て来い! これ以上の抵抗は無意味だ!」
先ほどは不意をつかれたが、彼我の実力差は明らかだ。
ジャネットは油断なく木立の隙間を進み、どのような罠が来てもうろたえまいと視線を走らせた。
ほどなくして、樹木に寄りかかる人影を捉えた。
フィリアは幹の根元に背中を預け、ぐったりとしている。ジャネットを振り切るため相当無理をしたのか、呼吸がずいぶん荒い。
「……諦めろ。もう逃げられんぞ」
ジャネットは柄を握り締め、刃を彼女に向けて振り下ろすべきかどうか迷った。
修道院に来てから日は浅いが、フィリアがどういう人間なのかおおむね理解している。
恋人を愛し、人並みの良識と心優しさを持った、ごく普通の村娘だ。子供を痛めつけて笑えるような心の持ち主ではない。
彼女が豹変した理由は、なんだ? それを突き止めるべきだ。
『ならば教えてやろう』と。
耳朶を介さずに声が響き、全身が寒気に襲われた。
「ぐっ!?」
刃を腹に差し込まれたような、強引な挿入感に息が詰まる。痛みこそないが、意識が明滅し、景色が上下左右に揺さぶられる。
「あ、あああっ!」
全身を痙攣させ、女騎士の視界が暗転し。
次に目を開いたとき、彼女の持つ意識や記憶は全て『彼』へと強制的に譲り渡された。
無力な小娘のカラダを捨て、新たに手に入れた肉体と意識を同調させる。
フィリアの知識にはなかった情報が次々に流れ込み、ジャネットが修道女リリィに心酔する一人だということも知る事が出来た。
リリィは武力こそ持たないが、多くの人間を惹き付ける発言力を持っている。
カリスマ性のある宗教家が人々を扇動し、新たな戦争の火種を生み出す。退屈な、よくある話だ。
「生きてこそ得られる栄光のため、今は耐えようと言うわけか……良い判断だ」
どこか嘲笑めいた言葉を漏らし、ジャネットは抜き身のままだった刀剣を慣れた仕草で鞘におさめた。
銃が出回る世界では、長剣など美術品の価値しか残っていない。短刀と扱いは異なり、まして隻腕ともなれば滑らかに納刀できるはずもないのだが、ジャネットの肉体に染み付いた習慣はすんなりと異世界での動作をこなした。
「ん……わた……し……?」
フィリアのまぶたが震え、浮遊感の伴った口調でおもむろに顔を上げる。
「ジャネット……さん?」
うっすらと開かれた彼女の瞳に、女騎士はイビツな薄ら笑いで応えた。
*
霧深い森からいくらか離れた平原には、敵国の一部隊が陣を張っていた。
部隊長であるゲラウ少佐はワインボトルの注ぎ口から直接勝利の美酒を味わいながら、逞しい怒り型を上機嫌に揺らしていた。
周囲の部下達も同じように近隣の村から奪った食事を食い荒らしつつ、少佐の馬鹿笑いに追従する。無骨な男達の酒宴には相手の土地を蹂躙している良心の呵責も、昼夜を問わず戦う前線への心遣いも感じなかった。
「グハハハ! 圧倒的だな、我が軍は!」
ゲラウ少佐の率いる部隊は、後方の支援が主な仕事だ。前線が背後からの強襲を受けぬよう周辺を調査し、時には補給物資を送り届けるための部隊だが、前線を推し進める美しき女将官はその手腕から一度も彼らの部隊を頼った事がない。
後方支援といえば聞こえはいいが、前線部隊が焼き払った場所にあとからやってきて、目についた村落から適度に金と食料を巻き上げるだけの簡単な仕事だ。
戦時下の最中に飲む粗末な酒の味は、王国が誇る最高級の葡萄酒以上に美味く感じた。
「伝令によると、まもなく帝国首都も陥落するとか」
「さすが将軍殿! ……だが、女を独り占めしてしまわれるのは、いかがなものか」
「小官も同意であります。せっかく活きの良い女を見つけても、無傷で献上せねばならないというのは……いささか横暴がすぎましょう」
女将官は敵領土で見つけた若く美しい女を『味見』しているらしい。女王陛下直々の命令だというので、表立って異議を唱える人間もいなかった。
以前、規律を破って捕虜の女に手を出した兵士は、口に出すのもおぞましい方法でその女将官に処刑された。
現地に残される女は年寄りや、とても抱くような気にならない醜い者ばかり。仕事は簡単で、自由に飲み食いも出来るが、それだけが唯一の不満だ。
「『用済み』となった女が我等の部隊まで送られるのは一ヵ月後……わずかではありますが、士気が落ち始めています」
「将軍には困ったものだな。我等が後方を固めているからこそ、心置きなく前線で戦えていることを忘れていらっしゃる」
ここがまともな戦場ならば、悩みさえしなかったろう。
しかし美味い酒と美味い食事と多大な暇を与えられているのに、肉欲だけが満たされない状態は、ゲラウ少佐をはじめとした部隊全体が抱えるもどかしさだった。
「し、少佐殿!」
テントの入り口を乱暴に払い、一人の兵士が駆け込んでくる。
「なんだ。無礼であろう!」
「申し訳ありません! 急ぎ、お伝えしたい事が……!」
直立して敬礼するが、兵士の声は上擦っていた。それは上官に怒鳴られたからではないだろうことは、動揺さめやらない顔を見ていれば充分に察せられる。
「何があった? まさか、前線の討ち漏らした部隊が襲ってきたか?」
「そ、その逆です……抵抗勢力の幹部と名乗る女騎士が、我が隊に投降したいと申し入れてきました!」
その報せに、一同がざわめき立った。
投降ではなく、『女』騎士という単語にだ。
*
記憶に従って思惑通りに敵軍の後方部隊と接触したジャネットは、男達から浴びせられる肉欲の視線に気付き人知れず唇を吊り上げた。
彼らと直接言葉を交わしたことはないが、前線部隊との戦いや村を焼かれたフィリアの記憶を思い返せば、おのずと敵軍の品格というものは見えてくる。
王国騎士を名乗っていながら、その実、連中はただの悪党だ。
騎士道などという高潔な精神など持たず、略奪のためにのみ剣をふるう殺人鬼ども。大将と思われる女騎士からして、笑いながらジャネットの片腕を切り落とす残酷な人間だ。
騎士としても、ジャネット自身としても許しがたい、不倶戴天の敵。
その陣営に取り入ろうとする自分が信じられなかった。
戸惑いや怒りの感情がとめどなく溢れ、しかし彼女の心と体を引き継いだ男は情騎士の誇りである長剣を敵陣の中にぞんざいに投げ捨てると、物憂い気に微笑んだ。
「そろそろ指揮官殿にお目通り願いたいのだが」
「いや、しかし……」
「疑う気持ちもわかるが、丸腰のうえに隻腕だ。一体何ができると思う?」
ジャネットはおよそ彼女らしからぬ、相手を試すかのような喋り方で野営陣地の入り口にいた兵士を口説いている。
白旗を掲げるわけでもなく、口先だけの降伏宣言を果たして信じていいものか。戸惑いを浮かべる男の顔には、そうした逡巡が見え隠れしていた。
「それに、手土産も用意してあるんだ」
背後へ視線を促すと、ちょうど二人分の人影が濃霧の中から現れる。浴衣姿のテイミーと、気を失ったフィリアだ。
「ま、また女だっ」
「おかしな格好だが……なんと美しい瞳の持ち主だ」
見張り番とジャネットのやりとりを遠巻きにしていた兵士らが色めき立ち、情欲のこもった眼差しを二人に向ける。
反応の差にいささかムッと来たが、そんな「女として」の感情が生まれること自体が、マルクには新鮮だった
「私が指揮官殿と話している間、彼女たちは自由に使ってくれていい。……見たところ、あまり華のない部隊のようだし、な」
「グハハハハ! 誇り高き帝国騎士が、よもや自国の民を貢ぎ物にするとは!」
そろそろ口説き落とすことができるかと思われた矢先、銅鑼を叩いたような笑い声が陣営の中から響いた。
どよめいていた兵卒が弾かれたように背筋を伸ばし、人垣を二つに割る。
全身に赤銅の鎧をまとった大柄な男は、彼らの間を悠然とした足取りで進んでいた。
「命を掛けて民を守り、皇帝への絶対忠誠を誓った帝国騎士が、いったいどのような心境の変化かな?」
「帝都の陥落も迫った今、忠誠心などブタの餌にも劣ります。なれば、生き延びる可能性に寝返るのは必然でしょう」
本来のジャネットならば頭の片隅にすらよぎらない、あさましい台詞をとうとうと口にする。
指揮官らしき大男は一瞬だけ目を丸くして、すぐにまた哄笑を響かせた。
「グハハハ! 貴様のような帝国騎士がいたとは驚きだ! その考え、我が軍にこそふさわしい!」
「では、私を受け入れていただけると?」
「もちろんだとも。『手土産』ともども、存分に可愛がってやるぞ!」
大男の視線が、乳房の稜線を描くプレートアーマーをいやらしくねめつける。
片腕を失っていようと、ジャネットの持つ気高い魅力はまったく損なわれていないようだ。
「光栄なのですが、私などよりも……」
凛々しく整った顔立ちの女騎士は唇を邪悪に歪め、絶対に言ってはいけない一言を発した。
「美しき修道女に、ご興味はありませんか?」

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