ワーキング ~ナース編
長編の「退屈な書斎」は中断して
続かない短編をまた書いています
今度はお仕事モノ
一本目:ナース憑依
ちょっと怖い話
那須原史香(なすはらふみか)は懐中電灯を片手に、担当区域の病棟を足早に歩いていた。
夜の病院は恐ろしい。
そんな風に感じるのは新人か、病院関係者以外の人間だけだ。
史香も夜勤を任されるようになったばかりの頃は、非常灯の明かりや人気のない廊下、窓にうっすらと映る自分の顔にすら怯えていた。しかしそれもすぐに気にならなくなる。気にする余裕がなくなる、と言った方が正しいだろう。
消灯後の見回りは、人のいる日中よりも激務だ。
入院患者のトイレ介助にオムツ交換、重要な呼び出しからくだらない内容まで多岐にわたるナースコールへの対応。検温、点滴、採血の準備に記録。急患が入れば病室の用意もしなければならない。
夜通し仕事に追われ、朝日が昇るころには完全に疲れ切っている。キッチリまとめていたはずの髪がほつれ、それを整える気力すら湧かない。
夜の闇を怖がるゆとりなど、あるはずもなかった。
「はぁ……もうイヤ」
今しがた出て行った病室を振り返り、史香は大きなため息とともに嘆いた。
史香をナースコールで呼び出した506号室の塩原は、数多い患者の中でも特に口うるさい老人だ。
エアコンが弱い。食事が不味かった。テレビのリモコンが見つからない。眼鏡はどこだ。子供の声がやかましい。
決まって夜中の0時にナースコールで呼び出し、心底からどうでもいい愚痴を聞かされる。史香に限らず、夜勤看護師のほぼ全員が体験していることだった。
すぐに向かわなければ、烈火のごとく怒り散らす。『ワシを殺す気か!』という台詞から始まり、理不尽極まりない説教をたっぷり浴びせられる。当然、そんな老人が職員から好かれているわけもなかった。
(あのジジイ……さっさと死ねばいいのに)
病院関係者として禁忌にも近い感情を抱いてしまうが、それほど塩原は迷惑な存在だ。
なかなか退院しないのも、どうせ家族から煙たがられているからに違いない。
「……あー。やめやめっ!」
頭を振り、思い浮かべるだけでストレスの溜まる老人の顔を打ち消す。
こんなことを考えている場合ではない。やることはまだまだ沢山あるのだ。
史香は気持ちを切り替え、病棟の見回りを続けた。
*
三日後の夜。ナースステーションで一人事務仕事をしていた史香は、病室からの呼び出し音に気付き眉間にしわを寄せた。時刻は深夜0時。場所は……506号室だ。
「あのジジイ、また……!」
奥歯をギリリと噛み締め、白衣の天使と称するにはかなり問題のある形相を浮かべる。
虫の居所が悪かった。いつもならうんざりとため息をこぼす程度で済むはずの呼び出しが、今日に限って最高に煩わしく感じた。
(どうせ、またくだらないことを言いつけるつもりなんだ……)
しかし今日はやる事が多すぎる。どこかの祭り会場で大規模な事故が起きたらしく、緊急搬送される患者がひっきりなしにやってきたのもイラつきの一因だ。
手元にある書類は、もう少しで片付く。史香は点滅を続けるコールランプを無視して、再び机の上に視線を落とした。
そのわずか三十分後。
怒鳴り声を覚悟して入った506号室には、沈黙を続ける塩原の遺体があった。
死因は腎不全による末期症状で、たとえ史香がすぐに病室へ向かったところで手の施しようのない状態だった。もっともあの晩、史香がナースコールを無視したことを知る人間は居ない。
遺族も病院も、誰一人として彼女をつるし上げることはなく、また、史香自身もそれほど強い後悔を感じている訳ではなかった。
(私のせいじゃないし……)
普段の行いが悪いから、大事なときに無視されてしまうのだ。狼少年の童話を地で行くような結末に、思い悩むことすらバカバカしくなる。
そうして半月もすれば彼女は日常の忙しさに追われ、塩原のことなどすっかり頭から消え去ってしまうのだった。
年末が迫り、本格的に冬の寒さを感じるようになった夜。
ナースステーションにいる史香が見回りの準備をしていると、病室からの呼び出し音が響いた。
緑色のランプが点灯した部屋番号に目を走らせ、表情が怪訝なものに変わる。
「506……?」
時計に視線を向けると、針は深夜の0時を指していた。
忘れていたはずの顔が脳裏に蘇り、同時に背筋がぞっと震える。
ちかちかと点滅を繰り返す明かりは、まるで自分を手招きしているかのようだ。
「……まさかね」
史香は腰を上げ、506号室へ……誰もいないはずの病室へと向かった。
懐中電灯を片手に廊下を進み、506号室の前に立った史香は特に躊躇することなく扉を開けた。ランプが点灯したとき感じた奇妙な寒気はとっくに薄れている。
誤作動に違いない。よくあることだ。そう思いながら無人の病室に足を踏み入れ、主を失って久しいベッドに歩み寄る。
衝立を挟んで窓際にあるベッドは、当然だが人の気配を感じない。
カーテンを開け放ったままの窓ガラスが夜の闇を切り取り、白いナース服を着た史香の虚像を浮かび上がらせる。
ベッドを覗き込むと、そこには何もなかった。
シワ一つない清潔感のあるベッドシーツと枕が置かれているだけで、部屋を間違えた入院患者も病院に侵入した不審者もそこにはいない。
(なに緊張していたんだろ、私)
やっぱりスイッチの誤作動だったんだ。そう思ってベッドの枠にかけてあるナースコールに手を伸ばした次の瞬間、史香は違和感に気付いた。
「え……?」
懐中電灯の明かりが、衝立を照らしている。
スポットライトのように丸く縁取られた光球の中には、影があった。
ベッドの上に座る人間が投影するのと同じ程度の大きさだ。頭があり、肩があり、両腕を下ろしている。しかし、影を生み出すはずの実体はどこにもなかった。
顔に該当する陰影が、じっと史香を見つめている。……ような気がした。
「な、な、なに……」
生まれて初めて目撃する超常現象に、舌が上手く回らない。
懐中電灯が手から滑り落ち、床を転がる。
光が史香の背後を照らし、衝立に二人分の影が映し出された。姿のない人影と史香の影が並び、片方はゆらゆらと不気味にうごめいている。
逃げなければ。そう思っても足は動かず、視線は縛り付けられたように衝立から離れない。
全身が恐怖に支配されている間に史香のものではない影はゆらめきを徐々に激しくし、人の形からかけ離れていった。
影は水のような不定形となり、点滴のチューブを思わせる細長い管状の影が四方八方に伸びる。
(い、いや……)
言葉に出来ない不安と危機感が全身を直撃し、しかし金縛りはますますひどくなっていた。
やがて人の形から崩壊した陰影は史香の影に這い寄り、覆い重なってきた。影に自身の影が呑み込まれ、同時に肉体にも変化が起きる。
「かっ、はっ……!?」
呼吸が苦しくなり、体の中に何かが侵入したような……恋人との性行為よりもずっと巨大な挿入感が、体全体に襲い掛かった。
《よくも見殺しにしてくれたな……》
頭の中に、しわがれた老人の声が響く。かつてこの病室のベッドで死を迎えた、塩原の声だった。
それを理解した瞬間、衝撃と浮遊感が同時に起こり、史香の意識は急速に遠のいていった。
「はっ、あ、ああああ!?」
弾かれたように全身を震わせ、ベッドの上に倒れこむ。
「はぁ、はぁッ…………んっ」
短い呼吸を二、三度繰り返し、しばらくすると史香は何かに操られるようにゆっくりと起き上がった。
両手を見下ろし、握り、閉じ、握り、徐々に唇を吊り上げていく。
「……これが、女の体か」
二十余年共にしてきた己の肉体を初めて実感したような台詞を呟き、開かれた両手が胸へと差し伸ばされる。
ナース服を隆起させる稜線を撫で、女性特有のなだらかな輪郭を指先でツツ…と確かめる。史香は細くしなやかな五指を鉤形に曲げると、やや大きめの乳房を鷲掴みにした。
服と下着越しに、すくい上げるようにして自分の胸を揉む史香の表情は恍惚としている。口元を大きく歪曲させて、短く、妖艶な吐息と卑しい笑い声を同時に漏らした。
「んっ、は……んひひっ、んっ、女の胸に触るのは、……はふっ、久しぶりだのぉ」
老人めいた喋り方で自身の胸を夢中になって揉む姿は、白衣の天使でもなければ那須原史香本人からもかけ離れている。
深夜の病室で彼女の痴態を見守るのは、いつの間にか再び二つになった衝立の人影だけだった。
実体のない人影は両手を振り上げ、何度も壁を叩くような動作をしている。それは逆に、衝立の中から這い出そうともがいているようにも見えた。
史香は異様な動きを繰り返す影には目もくれず、ベッドに座ると両脚を大きく開いた。
白のタイトスカートがめくれあがり、同色のストッキングに包まれた脚や股間部分が艶かしく懐中電灯の光を照り返す。
「おっほほ、やはりここのナース服はエロいのぉ」
ストッキング越しにすらりと伸びた脚線美を指先でなぞり、ゾクゾクと肩を震わせた。
最近はスラックスを採用する病院がほとんどだが、史香の勤務する病院はいまだに女性看護師へタイトスカートの着用を推奨している。
患者や職員問わず男性から卑猥な目を向けられてしまう上に、動きづらい。多くの看護師が時代遅れだと文句をこぼし、史香もそのうちの一人だった。そのはずなのに、今は自身の体に、そしてこの肉体を覆う純白の制服にかつてないほど興奮している。
「んっ……こりゃ……はぁぅ……たまらん……」
左手は乳房を揉み続け、脚をさする右手が膝頭をくすぐり、太ももまで移動した指先がストッキングとショーツの上から女性器に触れる。
先端を潜り込ませて、薄布越しに割れ目の形を確かめる。背筋が震え、喉からこぼれる甘い声が大きくなった。
「んっああぅっ、んはっ」
高い声を上げ、痛いほどに自分の乳房を握り締める。
服の中で下着がズレ、突起物の存在が際立つようになった。史香は息も整わないうちからその突起物……乳首をつまみ、湧きあがる享楽に身を委ねる。
「ふぁっなん……じゃ、こりゃ……んんっ! こんなの、初めて……だ……うぁん!」
自慰行為どころか、結婚を視野に入れた恋人との性交渉も済ませた肉体は、粗野な愛撫でも充分すぎるほどの快感を与えた。
端に涙を溜めた瞳は処女のようなか弱さを見せ、だらしなく突き出された舌は獣の貪欲さを思わせる。
相反する二つの印象を融合させた表情でヨガリ狂い、下肢を弄り回す指はついにクリトリスを捉えた。
「くふっ、んんんぅっ!」
乳首よりも更に小さな突起物は、それまで弄り回したどの部位よりも刺激的だった。
中指を押し込めると甘い痺れが体中を駆け巡り、腰がビクビクと跳ねる。
「ふひぇ、はゅんッ、はっ、ああっ、これ、いい、すご……!」
ベッドの上で大股を開き、史香は一心不乱に同じ箇所ばかりをこすり続けた。
誰にはばかることなく嬌声を響かせ、ストッキング越しに感じる股間の湿り気に唇を吊り上げる。
「んう……こんなに、濡れて……んっ、なんてイヤラシイ身体だ」
史香は右手を下着の中にもぐりこませ、直接性器に触れた。
陰毛の手触りに愛液のぬめり、肉の合わせ目が作る渓谷と、入り口付近にある敏感な肉芽。それらを順に撫で回し、二本の指で擦り合わせ、心とカラダを快楽の高みへ導く。
「くっ、んんっ、んぁっ! はっ、ああああっ!」
下着の中で音が鳴るほど愛液を掻き回し、乳首を思い切りつねった。
瞬間、史香は体を大きく仰け反らせ、下半身を激しく震わせる。
目の前が真っ白になり、全身から力が抜ける。そのままベッドに背中から倒れこみ、史香は絶頂の余韻に溺れた。
「はっ、ああっ、ああ、ひふ……すご……ずっと、射精してるみたい、だ……くぁっ、ああっ……」
だらしなく脚を広げ、乱れた着衣とほつれかけた髪はそのままに深呼吸を繰り返す。
たっぷり五分ほどかけてから、史香はようやく上半身を起こした。
しわくちゃになったナース服を整え、愛液まみれになったストッキングとショーツを脱ぎ備え付けのゴミ箱に放り込む。
下肢を締め付ける感覚が無くなり、開放感に満たされた。
床に転がったままの懐中電灯を拾うと、衝立に映る影は再び一つだけに……まるでさめざめと泣く女性のような輪郭を描いた、実体のないシルエットだけが残る。
「気に入ったぞこのカラダ。ありがたく頂くとしよう」
史香は影に向かって笑みを浮かべ、懐中電灯のスイッチに指を掛ける。
衝立の影がその動作に気付き慌てだした瞬間、パチリと、無機質な音を立ててライトの明かりが消えた。
影は病室の闇に塗りつぶされ、姿を消す。
史香は満足な笑みを浮かべてきびすを返し、病室の扉を開けた。
最後にもう一度、かつての自分が息を引き取ったベッドを振り返る。
「じゃあな、『那須原史香』さん」
今日から自分のものになった名前を呟き、史香は病室の戸を閉めた。
無人となった病室には、女のすすり泣く声が暗闇に染み込むようにこだました。
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続かない短編をまた書いています
今度はお仕事モノ
一本目:ナース憑依
ちょっと怖い話
那須原史香(なすはらふみか)は懐中電灯を片手に、担当区域の病棟を足早に歩いていた。
夜の病院は恐ろしい。
そんな風に感じるのは新人か、病院関係者以外の人間だけだ。
史香も夜勤を任されるようになったばかりの頃は、非常灯の明かりや人気のない廊下、窓にうっすらと映る自分の顔にすら怯えていた。しかしそれもすぐに気にならなくなる。気にする余裕がなくなる、と言った方が正しいだろう。
消灯後の見回りは、人のいる日中よりも激務だ。
入院患者のトイレ介助にオムツ交換、重要な呼び出しからくだらない内容まで多岐にわたるナースコールへの対応。検温、点滴、採血の準備に記録。急患が入れば病室の用意もしなければならない。
夜通し仕事に追われ、朝日が昇るころには完全に疲れ切っている。キッチリまとめていたはずの髪がほつれ、それを整える気力すら湧かない。
夜の闇を怖がるゆとりなど、あるはずもなかった。
「はぁ……もうイヤ」
今しがた出て行った病室を振り返り、史香は大きなため息とともに嘆いた。
史香をナースコールで呼び出した506号室の塩原は、数多い患者の中でも特に口うるさい老人だ。
エアコンが弱い。食事が不味かった。テレビのリモコンが見つからない。眼鏡はどこだ。子供の声がやかましい。
決まって夜中の0時にナースコールで呼び出し、心底からどうでもいい愚痴を聞かされる。史香に限らず、夜勤看護師のほぼ全員が体験していることだった。
すぐに向かわなければ、烈火のごとく怒り散らす。『ワシを殺す気か!』という台詞から始まり、理不尽極まりない説教をたっぷり浴びせられる。当然、そんな老人が職員から好かれているわけもなかった。
(あのジジイ……さっさと死ねばいいのに)
病院関係者として禁忌にも近い感情を抱いてしまうが、それほど塩原は迷惑な存在だ。
なかなか退院しないのも、どうせ家族から煙たがられているからに違いない。
「……あー。やめやめっ!」
頭を振り、思い浮かべるだけでストレスの溜まる老人の顔を打ち消す。
こんなことを考えている場合ではない。やることはまだまだ沢山あるのだ。
史香は気持ちを切り替え、病棟の見回りを続けた。
*
三日後の夜。ナースステーションで一人事務仕事をしていた史香は、病室からの呼び出し音に気付き眉間にしわを寄せた。時刻は深夜0時。場所は……506号室だ。
「あのジジイ、また……!」
奥歯をギリリと噛み締め、白衣の天使と称するにはかなり問題のある形相を浮かべる。
虫の居所が悪かった。いつもならうんざりとため息をこぼす程度で済むはずの呼び出しが、今日に限って最高に煩わしく感じた。
(どうせ、またくだらないことを言いつけるつもりなんだ……)
しかし今日はやる事が多すぎる。どこかの祭り会場で大規模な事故が起きたらしく、緊急搬送される患者がひっきりなしにやってきたのもイラつきの一因だ。
手元にある書類は、もう少しで片付く。史香は点滅を続けるコールランプを無視して、再び机の上に視線を落とした。
そのわずか三十分後。
怒鳴り声を覚悟して入った506号室には、沈黙を続ける塩原の遺体があった。
死因は腎不全による末期症状で、たとえ史香がすぐに病室へ向かったところで手の施しようのない状態だった。もっともあの晩、史香がナースコールを無視したことを知る人間は居ない。
遺族も病院も、誰一人として彼女をつるし上げることはなく、また、史香自身もそれほど強い後悔を感じている訳ではなかった。
(私のせいじゃないし……)
普段の行いが悪いから、大事なときに無視されてしまうのだ。狼少年の童話を地で行くような結末に、思い悩むことすらバカバカしくなる。
そうして半月もすれば彼女は日常の忙しさに追われ、塩原のことなどすっかり頭から消え去ってしまうのだった。
年末が迫り、本格的に冬の寒さを感じるようになった夜。
ナースステーションにいる史香が見回りの準備をしていると、病室からの呼び出し音が響いた。
緑色のランプが点灯した部屋番号に目を走らせ、表情が怪訝なものに変わる。
「506……?」
時計に視線を向けると、針は深夜の0時を指していた。
忘れていたはずの顔が脳裏に蘇り、同時に背筋がぞっと震える。
ちかちかと点滅を繰り返す明かりは、まるで自分を手招きしているかのようだ。
「……まさかね」
史香は腰を上げ、506号室へ……誰もいないはずの病室へと向かった。
懐中電灯を片手に廊下を進み、506号室の前に立った史香は特に躊躇することなく扉を開けた。ランプが点灯したとき感じた奇妙な寒気はとっくに薄れている。
誤作動に違いない。よくあることだ。そう思いながら無人の病室に足を踏み入れ、主を失って久しいベッドに歩み寄る。
衝立を挟んで窓際にあるベッドは、当然だが人の気配を感じない。
カーテンを開け放ったままの窓ガラスが夜の闇を切り取り、白いナース服を着た史香の虚像を浮かび上がらせる。
ベッドを覗き込むと、そこには何もなかった。
シワ一つない清潔感のあるベッドシーツと枕が置かれているだけで、部屋を間違えた入院患者も病院に侵入した不審者もそこにはいない。
(なに緊張していたんだろ、私)
やっぱりスイッチの誤作動だったんだ。そう思ってベッドの枠にかけてあるナースコールに手を伸ばした次の瞬間、史香は違和感に気付いた。
「え……?」
懐中電灯の明かりが、衝立を照らしている。
スポットライトのように丸く縁取られた光球の中には、影があった。
ベッドの上に座る人間が投影するのと同じ程度の大きさだ。頭があり、肩があり、両腕を下ろしている。しかし、影を生み出すはずの実体はどこにもなかった。
顔に該当する陰影が、じっと史香を見つめている。……ような気がした。
「な、な、なに……」
生まれて初めて目撃する超常現象に、舌が上手く回らない。
懐中電灯が手から滑り落ち、床を転がる。
光が史香の背後を照らし、衝立に二人分の影が映し出された。姿のない人影と史香の影が並び、片方はゆらゆらと不気味にうごめいている。
逃げなければ。そう思っても足は動かず、視線は縛り付けられたように衝立から離れない。
全身が恐怖に支配されている間に史香のものではない影はゆらめきを徐々に激しくし、人の形からかけ離れていった。
影は水のような不定形となり、点滴のチューブを思わせる細長い管状の影が四方八方に伸びる。
(い、いや……)
言葉に出来ない不安と危機感が全身を直撃し、しかし金縛りはますますひどくなっていた。
やがて人の形から崩壊した陰影は史香の影に這い寄り、覆い重なってきた。影に自身の影が呑み込まれ、同時に肉体にも変化が起きる。
「かっ、はっ……!?」
呼吸が苦しくなり、体の中に何かが侵入したような……恋人との性行為よりもずっと巨大な挿入感が、体全体に襲い掛かった。
《よくも見殺しにしてくれたな……》
頭の中に、しわがれた老人の声が響く。かつてこの病室のベッドで死を迎えた、塩原の声だった。
それを理解した瞬間、衝撃と浮遊感が同時に起こり、史香の意識は急速に遠のいていった。
「はっ、あ、ああああ!?」
弾かれたように全身を震わせ、ベッドの上に倒れこむ。
「はぁ、はぁッ…………んっ」
短い呼吸を二、三度繰り返し、しばらくすると史香は何かに操られるようにゆっくりと起き上がった。
両手を見下ろし、握り、閉じ、握り、徐々に唇を吊り上げていく。
「……これが、女の体か」
二十余年共にしてきた己の肉体を初めて実感したような台詞を呟き、開かれた両手が胸へと差し伸ばされる。
ナース服を隆起させる稜線を撫で、女性特有のなだらかな輪郭を指先でツツ…と確かめる。史香は細くしなやかな五指を鉤形に曲げると、やや大きめの乳房を鷲掴みにした。
服と下着越しに、すくい上げるようにして自分の胸を揉む史香の表情は恍惚としている。口元を大きく歪曲させて、短く、妖艶な吐息と卑しい笑い声を同時に漏らした。
「んっ、は……んひひっ、んっ、女の胸に触るのは、……はふっ、久しぶりだのぉ」
老人めいた喋り方で自身の胸を夢中になって揉む姿は、白衣の天使でもなければ那須原史香本人からもかけ離れている。
深夜の病室で彼女の痴態を見守るのは、いつの間にか再び二つになった衝立の人影だけだった。
実体のない人影は両手を振り上げ、何度も壁を叩くような動作をしている。それは逆に、衝立の中から這い出そうともがいているようにも見えた。
史香は異様な動きを繰り返す影には目もくれず、ベッドに座ると両脚を大きく開いた。
白のタイトスカートがめくれあがり、同色のストッキングに包まれた脚や股間部分が艶かしく懐中電灯の光を照り返す。
「おっほほ、やはりここのナース服はエロいのぉ」
ストッキング越しにすらりと伸びた脚線美を指先でなぞり、ゾクゾクと肩を震わせた。
最近はスラックスを採用する病院がほとんどだが、史香の勤務する病院はいまだに女性看護師へタイトスカートの着用を推奨している。
患者や職員問わず男性から卑猥な目を向けられてしまう上に、動きづらい。多くの看護師が時代遅れだと文句をこぼし、史香もそのうちの一人だった。そのはずなのに、今は自身の体に、そしてこの肉体を覆う純白の制服にかつてないほど興奮している。
「んっ……こりゃ……はぁぅ……たまらん……」
左手は乳房を揉み続け、脚をさする右手が膝頭をくすぐり、太ももまで移動した指先がストッキングとショーツの上から女性器に触れる。
先端を潜り込ませて、薄布越しに割れ目の形を確かめる。背筋が震え、喉からこぼれる甘い声が大きくなった。
「んっああぅっ、んはっ」
高い声を上げ、痛いほどに自分の乳房を握り締める。
服の中で下着がズレ、突起物の存在が際立つようになった。史香は息も整わないうちからその突起物……乳首をつまみ、湧きあがる享楽に身を委ねる。
「ふぁっなん……じゃ、こりゃ……んんっ! こんなの、初めて……だ……うぁん!」
自慰行為どころか、結婚を視野に入れた恋人との性交渉も済ませた肉体は、粗野な愛撫でも充分すぎるほどの快感を与えた。
端に涙を溜めた瞳は処女のようなか弱さを見せ、だらしなく突き出された舌は獣の貪欲さを思わせる。
相反する二つの印象を融合させた表情でヨガリ狂い、下肢を弄り回す指はついにクリトリスを捉えた。
「くふっ、んんんぅっ!」
乳首よりも更に小さな突起物は、それまで弄り回したどの部位よりも刺激的だった。
中指を押し込めると甘い痺れが体中を駆け巡り、腰がビクビクと跳ねる。
「ふひぇ、はゅんッ、はっ、ああっ、これ、いい、すご……!」
ベッドの上で大股を開き、史香は一心不乱に同じ箇所ばかりをこすり続けた。
誰にはばかることなく嬌声を響かせ、ストッキング越しに感じる股間の湿り気に唇を吊り上げる。
「んう……こんなに、濡れて……んっ、なんてイヤラシイ身体だ」
史香は右手を下着の中にもぐりこませ、直接性器に触れた。
陰毛の手触りに愛液のぬめり、肉の合わせ目が作る渓谷と、入り口付近にある敏感な肉芽。それらを順に撫で回し、二本の指で擦り合わせ、心とカラダを快楽の高みへ導く。
「くっ、んんっ、んぁっ! はっ、ああああっ!」
下着の中で音が鳴るほど愛液を掻き回し、乳首を思い切りつねった。
瞬間、史香は体を大きく仰け反らせ、下半身を激しく震わせる。
目の前が真っ白になり、全身から力が抜ける。そのままベッドに背中から倒れこみ、史香は絶頂の余韻に溺れた。
「はっ、ああっ、ああ、ひふ……すご……ずっと、射精してるみたい、だ……くぁっ、ああっ……」
だらしなく脚を広げ、乱れた着衣とほつれかけた髪はそのままに深呼吸を繰り返す。
たっぷり五分ほどかけてから、史香はようやく上半身を起こした。
しわくちゃになったナース服を整え、愛液まみれになったストッキングとショーツを脱ぎ備え付けのゴミ箱に放り込む。
下肢を締め付ける感覚が無くなり、開放感に満たされた。
床に転がったままの懐中電灯を拾うと、衝立に映る影は再び一つだけに……まるでさめざめと泣く女性のような輪郭を描いた、実体のないシルエットだけが残る。
「気に入ったぞこのカラダ。ありがたく頂くとしよう」
史香は影に向かって笑みを浮かべ、懐中電灯のスイッチに指を掛ける。
衝立の影がその動作に気付き慌てだした瞬間、パチリと、無機質な音を立ててライトの明かりが消えた。
影は病室の闇に塗りつぶされ、姿を消す。
史香は満足な笑みを浮かべてきびすを返し、病室の扉を開けた。
最後にもう一度、かつての自分が息を引き取ったベッドを振り返る。
「じゃあな、『那須原史香』さん」
今日から自分のものになった名前を呟き、史香は病室の戸を閉めた。
無人となった病室には、女のすすり泣く声が暗闇に染み込むようにこだました。

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