短編 「交換」
とても長らく更新止まってましたがやっと余裕ができ始めたので
エロなしの短編を投下します 更新ペースが戻ると良いなぁ……
露天商というものを知っているだろうか。
移動販売車を停めたり、あるいは道ばたにビニールシートを広げて雑貨や食べ物を売る人間をそう呼ぶらしい。
私が通っていた学園では、放課後になると校門の脇にその露天商が居座っていた。毎日いるわけじゃなくて、それでも頻繁に目撃される程度にはよく見かけるといった感じだ。
薄汚れたブルーシートの上にお爺さんともお婆さんともつかない老人が一人だけいて、その隣には段ボール製の小さな立て看板が置いてあった。
看板には、黒のマジックで「交換します」とだけ書かれている。
物々交換でも請け負うのかなと思っても、シートの上には銀のトランクが一つあるだけで他に商品らしきものはない。そのトランクも、値札や商品の説明は何もなく明らかに使い古された感じで所々がくすんでいた。
他に品物が見当たらない以上、交換するのはこの薄汚れたトランク、ということだろうか。
中に何が入っているか知らないが、正直ゴミにしか見えなかった。
校門から出てくる生徒は何人もいたが、あからさまに無視して関わり合いにならないよう老人の前を足早に通り過ぎていく。
私も普段なら彼女たちと同じように通り過ぎ、家路へと急いだ。
今日に限って老人の前で足を止めたのは、それこそ偶然だった。あるいは、老人の持つ怪しい雰囲気と謎めいたトランク、そして説明不足にもほどがある立て看板の文字に、ほんの少しだけ興味を興味を引かれたからだったのかもしれない。
「交換って、何でもいいの?」
私の言葉に老人はゆっくりと顔を上げると、かさかさに乾いた唇をニィッと薄く割って笑みを見せた。近くで見ても、しわくちゃの顔は男か女かわからない。
体は全身を包み込むような黒いローブのようなもので覆われ、小柄なのか大柄なのかすら判断できなかった。
「なんでもさ」
見た目通り声もしわがれていて、ますます性別不詳。とはいえ老人の正体を突き止めたいわけでもないので、気にしないことにする。
私はカバンの中から三冊の大学ノートを取り出すと、それらをすべて老人に差し出した。
「これと交換して」
表紙には三人の名前と、それぞれの個性が出ている字で「数学」と書かれている。
単なる授業のノートだが、もしプロファイリングの専門家がいたら三人の生い立ちや人格までつまびらかにできるだろう情報の塊だ。
老人は私の手元を一べつして、ローブの中から枯れ枝のような腕を出すとそのまま何も言わずにノートを受け取った。
これをきっかけに連中が破滅してくれればと切に願い、手を離す。
「いいとも、交換成立だ」
老人はまたあの薄気味悪い笑顔を浮かべると、おもむろにトランクのロックを外した。
しまい込んだ三冊のノートと入れ替わりにトランクの中から出てきたのは、まったく同じ大学ノート。個性的な「数学」の字も、書いてある名前も、紙のヨレ具合にいたるまで、すべて同じで────。
って、いったんトランクに入れたふりをして同じものをまた出しただけだ、これ。
呆れ気味な眼差しを無視して、老人は三冊のノートを目線の高さに上げると先ほどの私と同じように差し出してきた。
「どこが交換なのよ……」
私は不満を感じつつも、少しだけ安堵しながらノートを受け取る。
失くした、などと言ったら持ち主たちからどんなひどい目に遭わされるかわかったものではない。
そんなことを考えながらパラパラページをめくっていくと、違和感を見つけた。
「あれ……?」
ノートの末尾には、数式とそれに対する解答が書き込まれている。だけど、今日の授業でこれを解いた覚えはない。
まさかと思い教科書を出すと、書いてあったのは宿題として出された範囲と同じ設問だ。
私が行うはずだった宿題が、私の手を煩わせることなく仕上がっている。それは一冊だけではなく、「交換」した他の二冊も同じだった。
「これ、どういう……!」
ノートから顔を上げると、目の前にいたはずの老人がいなくなっていた。
トランクも、ビニールシートもない。左右を見渡しても、いるのは下校途中の生徒ばかりで、たまに何もない塀の前に佇む私をチラチラ盗み見している。
私は急に恐ろしくなり、足早に家路へとついた。
その夜。私は自分のノートを広げ、宿題を自力で解いていった。
何度も見直して、間違いがないことを確かめてからもう一度「交換」済みのノートを開く。私が一時間かけて解き明かした解答と同じ数字が、三冊すべてに書き込まれていた。
これはどういうことだろう。
表紙の文字も、名前も、隅に描かれたパラパラ漫画の内容までもが同じなのに、宿題の答えだけが更新されている。
私が老人にノートを渡したのは、衝動的なものだ。偶然渡された物と全く同じ内容の物をあらかじめ用意して、さらに今日出たばかりの宿題まで完璧に仕上げるなんて芸当が、本当にできるのだろうか。
腑に落ちないわたしはインターネットを開いて、学園掲示板を探った。
校門前に居座る謎の老人だ。生徒間で話題になっていないはずがない。
「露天商」で検索すると、予想通り老人についての話題がいくつか出てきた。
【都市伝説? 七不思議? シルバートランクについて】
そんな名前がついていたのかと苦笑しながらスレッドを開くと、老人についての情報と、野次馬根性浮き出しの勝手な推測が飛び交っていた。
信用度の高そうな話だけピックアップすると、こういうことだ。
あの老人……ここでいうジルバートランクは不定期に校門前に現れる怪人で、交換してほしいと差し出したものをグレードアップして返してくれるらしい。
夏でも黒のローブで身体を覆い隠し、傍らには常に名前の由来にもなったトランクが置いている。交換するものの種類は問わないようで、以前、シルバートランクに話しかけた人物は最近機種のスマホや新品のシューズを手に入れたそうだ。
単に新品になって戻ってくるなら、まだわかる。けど、私の場合はもはやそういうレベルの話じゃない。
ある人間は交換の代償として最後は命を失ったとか。そうかと思えば弟子入りし、別の街で第二のシルバートランクとして活動しているとか。書き込みの日付が新しくなっていくごとにエンターテインメント性を重視した逸話が目立つようになってきたので、私はそのままスマホを閉じた。
結局、ほとんど情報を得られなかった。だけど、すでに私の中でこの不可思議な現象への折り合いはつき始めている。
不思議だけど、損害を被ったわけではない。彼女たちの宿題は片付けられ、私はそのぶん余った時間をネットにあてられた。
老人の正体も、交換の代償も特に興味はなかった。
その数日後、私は再び老人……校門前に座り込むシルバートランクを見つけ、話しかけていた。
「これ、交換してもらえますか?」
スマートフォンを差し出し、ダメもとで尋ねてみる。
メイン画面は真っ黒で、どのボタンを押しても反応しない。トイレの水に長時間浸かっていたからか、心なしかアンモニア臭も漂っている気がした。
「いいとも、交換成立だ」
しわがれた手が壊れたスマホを受け取り、トランクにしまう。そのわずか数秒後、機種もカラーリングも同じスマホが取り出され、私の手に収まった。
「……」
私は息を呑み、電源を入れる。
点いた。でも、それだけじゃない。
メイン画面の壁紙や、入れているアプリ。撮りためた画像やアドレスの一覧、プロフィールに至るまで、すべてが水没する前の携帯と同じだった。
間違いない。この老人は、渡した物と同じ物をより良くしてくれるんだ。
宿題をやっていないノートなら、宿題をやっているノートと。壊れた携帯なら、壊れていない携帯と。それ以外はすべての記録を引き継いで交換してくれる。
神か悪魔のような仕業に、私は凄いとだけしか言えない。自分の語彙のなさが心底恨めしかった。
よく眼鏡をかけていれば頭がいいように見られがちだが、実際はそんなことない。
クズでのろまで要領も悪くて……だから、彼女たちに目を付けられた。
「あ、あの……っ」
スマホから目を離すと、老人はまた姿を消していた。お礼ぐらい言わせてくれてもいいのに……。
次の日、私は携帯は見つかったのかと笑いながら尋ねる彼女たちに、馬鹿正直に見つけたと答えた。彼女たちはトイレの便器から物を拾った私を病原菌のように吹聴し、ことさらに不潔だと罵る。とても、楽しそうな顔で。
私は彼女たちの嘲笑を、愛想笑いで受け止める。泣けばウザいと言われて蹴り飛ばされ、沈黙はシカトするなと叩かれるから、笑って受け流す。
おぞましい連中と肩を並べて笑うたびに、私の心にヒビが入っていくようだった。
それでも反逆の機会なんてあるはずもなく、私はひたすら媚びへつらうしか生きていくすべはないと思っていた。
さらに数日後、彼女たちはこれまで私をばい菌扱いしていたことを詫び、「友達」らしく寄り道に誘われた。
急な対応の変化だが、もちろん真相を私は知っている。彼女たちは先日教師に呼び出され、口頭注意されたのだ。それで、わざわざホームルームの終了直後……担任の先生がまだ教壇に残っていることを確認して、私を誘った。
チラリと担任に目を向けると、彼は教師の務めを果たした満足感に浸り、ウンウンと深く頷いていた。
仲直りのしるしに今からカラオケにいこう。その誘いが私には死刑宣告にしか聞こえない。
密室で、防音で、長時間彼女たちと一緒にいるなんて、それはそれは想像を絶する苦痛が与えられるだろう。
マイクは当然のように回されず、あるいは下品な単語が目立つ歌を選曲してさらし者にされ、下手糞だと笑われながらドリンクを掛けられて、もちろんルーム代は全額私持ちに決まっている。
「きょ、今日は……用事が」
私が抵抗の意志をのぞかせると、とたんに彼女たちから非難がましい目と威圧的な声を向けられた。教壇の上で私たちの動向を監視する担任も、彼女たちではなく誘いを断ろうとする私に軽蔑的な眼差しを向けている。
私に、選択の自由はなかった。
彼女たちに囲まれながら校門を抜けると、壁際の地面に青いビニールシートが見えた。
私は彼女たちの包囲網から外れ、老人の前に立つ。
老人は私の顔を見ると、ニヤリと、口角を吊り上げた……ような気がした。ただの気のせいかもしれない。
「交換して」
私は怪訝な顔をする三人をまとめて指さし、深い考えも特にないまま、ただこの地獄から逃れたい一心でそう言った。
今度は気のせいではなくハッキリと唇をゆがめ、かさついた声で老人が例の台詞を呟く。
「いいとも。交換成立だ」
老人が三人の腕をつかみ、彼女たちは悲鳴を上げながらトランクに引きずり込まれる。私の脳内がそんなホラー映画のようなシーンを描いたが、想像に反して老人は彼女たちに何もしなかった。
枯れ枝のような腕でトランクをポン、ポン、ポン、と三回、軽く叩いた。ただ、それだけ。
「ねえ、早く行こうよ」
彼女たちの一人がそう声を上げ、再び私を取り囲む。
目を離したのはほんの一瞬だった。
けれど視線を塀際に戻した時、やはり老人の姿は跡形もなく消えていた……。
カラオケボックスに入ると、彼女たちのうち二人はさっそく選曲し、十八番なのか聞いたこともない歌を得意げに歌い始めた。
なるほど、飲み物を店員が運んで来るまでは普通に楽しむつもりか。私はそう考え、断頭台の階段を一段一段昇るような気分でその時がくるのを待った。
「なに歌うの?」
ほどなくして四人分のドリンクが運ばれ、いつこれを頭へ注がれるのかと緊張していると、あぶれていた彼女たちの一人がそんなことを訊ねてきた。
なに、歌う? それはまるで、私も普通に歌っていいと言っているみたいじゃないか。
まさかそんなはずはない、都合のいい妄想は捨てろと自分に言い聞かせる。
しかし彼女は終始やさしげな顔のまま、「こういうところ初めて?」だの「これなんか聴いた事ない? 一緒に歌ってあげよっか」だのと、気色悪いぐらい親切だった。
歌い終わった二人も会話に参加し、おススメの曲や流行歌、どこで知ったのかと問いたくなるような懐メロなんかを次々に挙げ、次々に選曲していった。
結局私は一時間ほど歌いっぱなしで、おかげで喉が少し涸れてしまうという初めての経験をするはめになる。
ドリンクは普通にのどを潤すために使われ、支払いも「お詫びだから」と一言いって彼女たちが全額持ってくれた。帰りは彼女たちとアドレスを交換し、笑顔で手を振って別れた。
……まさか教師のお説教で改心したなんて、いくら愚鈍な私でもそうは考えない。
彼女たちは、「交換」されたんだ。
私を退屈しのぎにいたぶる悪魔のような人格から、善人のそれと交換された。記憶はそのまま引き継いでいるから、善人になった彼女たちは私にしたことを反省し、心から「お詫び」しているのだろう。
「すごい……あははっ、なにこれ」
地獄から抜けられたばかりか、友達が出来た。解放感と同時に充実感に満たされ、街中にもかかわらず私は声を上げて笑った。
これからの人生は、きっと幸せに違いないと信じて────。
ところが、彼女たちと連絡を取り合うことはなかった。
教室に入れば挨拶するし、話しかければ親しげに答えてくれる。でも、それだけ。交換した日のようにどこかに遊びに行くこともなければ、長電話で夜更かしすることもない。
私と彼女たちはもともと搾取する側とされる側の関係でしかなかった。それが老人の「交換」により失われた今、私たちを結びつけるものは何もないのだ。
趣味も交流関係も、もちろんコミュニケーション能力だって、勉強するだけしか能のない根暗な私と比べれば圧倒的に彼女たちの方が上なのだから。
唯一の欠点だった最悪の人格も「交換」によって改められ、彼女たちは以前より遥かに親しまれるようになった。
私はというと、彼女たちのオモチャ対象から外れ平和な日々を過ごせている。
もてあそばれる私を見て見ぬふりしていたクラスメイトや教師は最初こそ腫物を扱うように親切にしてくれたけど、しばらくするとそれもなくなり、ただそこにいるだけの置物のような扱いに変わるまではあっという間だった。
構われないことを望んだのに、構われなくなると途端に物足りなくなる。わがままだと自分でも思うが、どうにも止まらない。
何がいけないのか。私を構ってくれない彼女たちが悪いのか。いっそ、クラス全員を「交換」してもらおうか。だがそれで皆が私に注目するとは限らない。
そこまで考え、私は一番いい方法をひらめいた。
クズでのろまで要領も悪く、根暗でスタイルも平均並みで、自分から輪の中に入っていく度胸もないコミュ障の私を「交換」してもらうのはどうだろう。
そうすれば、きっと私も彼女たちのようになれるはず。
スタイル抜群で、常に輪の中心にいるような、明るい女の子に。
その日の放課後、私はいつものように校門の脇でブルーシートを広げる老人を見つけると足早に近づき、何度も頭の中でシミュレートした言葉を口にした。
「私を交換して!」
思った以上に大きな声が出て、下校中の生徒が何事かと振り返る。でも、違う。私が浴びたい注目はこんな一過性のものじゃない。
老人は落ちくぼんだ眼球で私を見ると、またあの不気味な笑みを浮かべた。
「いいとも。交換成立だ」
その言葉を聞いた瞬間。
私の視界は暗転し、何事かと思う間もなく意識も暗闇に落ちていった……。
気が付くと私は、布団の上で目を覚ました。
どのくらい寝ていたのだろう。起き上がると、いやに身体が重かった。
ぼんやりした視界のまま手さぐりで眼鏡を探し、布団の上が、信じられないぐらい散らかっていることに気づく。
ハダカの美少女が描かれた漫画やアニメジャケットのCDが枕元に散乱し、空になったまま放置されたカップ麺の容器には割りバシが入れたままになっていた。
どこだろう、ここ。
身の回りどころか部屋の間取りそのものが変わっている。
ふと手元を見ると、視線の先に角ばった大きな手と無駄毛の生えた太い指が映った。
「な……に、これ……っ」
愕然としながら呟いた声は、低くて重たい。
喉元に触れると、石でも入っているのかと思うほど硬い何かが埋まっていた。
股間から感じる張りつめたものはあえて無視して起き上がると、お腹がズンと重量を訴えかけてくる。
意識を失う前に何をしていたか記憶をたどった。
「たしか昨日は、ゲームをしてそのまま寝落ち……ちがう!」
知らないはずなのに違和感のない記憶に背筋が寒くなるのを感じながら、私は老人に私自身の「交換」を申し入れたことを思い出す。
鏡には、見知らぬ男が写っていた。
小さくて卑屈そうな目。潰れたような低い鼻。ざらついた声や、過剰なほど脂肪の付いた体は、元の私よりずっと醜い。
どんなものとでも交換してくれる。少しだけバージョンアップして返ってくる。例外だったことなんて一度もない。なのにこれはどういうことだ。
私は慌てて部屋を飛び出し、「私」の元へ向かった。家に行くべきか、学園に行くべきか少しだけ迷い、もう登校しているだろう可能性が高い学園へ急ぐ。
男の家は近所だったのか、外に出ると覚えのある風景が見えてきた。
とにかく、一刻も早く「私」に会いたい。歩くたびに、女だった時の記憶がこの身体から抜け落ちていくような感覚がして、今にも足が動かなくなりそうだ。
馴染みのある通学路が、まるで初めて訪れたような場所に思えてくる。
何度も道を間違えかけ、そのたびに修正し、ようやく校門前にたどりついたころには間もなく予鈴の鳴る時間になっていた。
大汗を流してゼエゼエと息を吐きながら、この後どうしようかと酸素の足りない頭で考える。この姿のまま校舎に入れば、「私」と会う前につまみ出されてしまうだろう。なんとか理由を付けて呼び出せないものかと息を整えながら考えていると、校門から少し離れた位置にあるバス停にバスが停まった。
遅刻間際に登校する予鈴組の生徒たちが、乗降口から次々と出てくる。
みんなが慌てて校舎を目指す中、一人だけ悠々とした足取りでステップから降りる制服姿の女子がいた。
その姿を見た瞬間、私は弾かれたように動き、彼女の背後に呼びかける。
「私の体、返して!」
私がそう叫ぶと、「私」が驚いたように目を見開いた。
鏡で見慣れた姿が自分の意思と関係なく動き回るだけでも不快なのに、「私」は不審をあらわにした顔でジリジリと後ろにさがる。なんで自分にそんな顔をされなければいけないのか。疲れているのも忘れ更に詰め寄り、「私」の肩を思い切りつかんだ。
「あんた、この男? どうして私の中にいるの?」
「い、痛っ……あの、離してください」
眉尻を下げて、弱々しい声で懇願される。
わけがわからなかった。まるで本物の私みたいな反応に、ひたすら戸惑う。
「……もしかして交換前の私?」
愕然としているといつの間にか大きく距離を取った「私」が、訝しげな眼差しのままポツリと呟いた。
交換……前? いったい、何を言っているんだろう。私は、この体の男と心が入れ替わってしまった。そう思ったのに、違うの?
目の前で困ったように笑う「私」が、とてつもなく不気味な存在に見えてくる。
「あんた……あんた、いったい誰!?」
悲鳴のような声を上げて問いただすと、「私」はこともなげに笑顔で答えた。
「私は私だよ。クズでのろまで要領が悪くて、根暗でスタイルも平均並みの女の子」
でも。と続ける。
「見ず知らずの人とだって友達になれる、高いコミュ力が身についた。正確に言えば、コミュ力の高かったどこかのオタクと交換したんだけど」
コミュニケーション能力は、言ってしまえば人格だ。どんな風に考えてどんな風に相手に伝えるか、過去の記憶やこれまで培ってきた知識、性格によって構成される。
老人に「私」の交換を要求した私は、誰かのコミュ力と交換することで少しだけグレードアップした。結果、コミュ障だった私の人格は、交換相手の誰かの中に入ってしまったんだ。
「そんな……そんなこと……」
罵詈雑言や不平不満が喉元まで出掛かるが、舌がもつれて上手く喋れなかった。もにゅもにゅと口をうごめかす私に「私」が憐れみの目を向けてくる。
「不細工でオタク趣味のコミュ障って、救えないよね。超ヒサン」
「ふざっ……け……返してよ! 私の体!」
「人聞き悪いなぁ。こっちだって被害者みたいなものなのに」
空々しくため息を吐いて、おもむろに胸に手を当てる。私の目の前で「私」が自前の平凡な胸を揉み、小さな喘ぎ声を漏らす。
「んっ……朝起きたら女の子になっててさぁ。しかも夢にまで見た巨乳美少女とかじゃなくて、普通のどこにでもいる地味系女だって言うのがまたね……ぁんっ」
「や、やめ……っ」
「でも贅沢は言ってられないし、素材は悪くないからいいか。それに、先に交換したお仲間もいるみたいだし?」
あまりにも衝撃的すぎて、言っていることの半分も理解できなかった。ただもう、どうすれば元に戻れるのか、そればかりを考えている。
なのに名案は一つとして浮かばないまま、校舎から本鈴の鳴る音が聞こえた。
「やっば、遅刻だ。それじゃバイバイ、おじさん。これから大変だと思うけど、頑張ってね~」
「まっ……!」
「私」は軽やかに校門をまたぎ、通う慣れた足取りで校舎へ向かう。
追いすがろうにも、私の足はアスファルトに縫い付けられたように動かなかった。
部外者という感覚が、学園の敷地に踏み入るための難易度を上げる。
なぜあの女の子に絡んでしまったのか。頭の片隅ではそんな疑問がわきはじめていた。
あれから私は、毎日校門を見張っている。
なんとしてでも女に戻る。そのためには、老人に頼んで再交換してもらわなければ。
ところが、この男との交換以来、老人は姿を現さなくなった。
聞き込みをしようにもコミュ力の低さがためらいを生み、下校する生徒達に気軽に話しかける事が出来ない。
老人は一体どこへ行ってしまったのか。
何度か、「私」が彼女たちと下校する光景を見かけた。
善良な人間と交換した彼女たちと「私」は、傍目にも親しげなのがわかる。
私はそれを壁際からじっと見つめ、ジメジメとした羨みだけを蓄積していくしかなかった。
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エロなしの短編を投下します 更新ペースが戻ると良いなぁ……
露天商というものを知っているだろうか。
移動販売車を停めたり、あるいは道ばたにビニールシートを広げて雑貨や食べ物を売る人間をそう呼ぶらしい。
私が通っていた学園では、放課後になると校門の脇にその露天商が居座っていた。毎日いるわけじゃなくて、それでも頻繁に目撃される程度にはよく見かけるといった感じだ。
薄汚れたブルーシートの上にお爺さんともお婆さんともつかない老人が一人だけいて、その隣には段ボール製の小さな立て看板が置いてあった。
看板には、黒のマジックで「交換します」とだけ書かれている。
物々交換でも請け負うのかなと思っても、シートの上には銀のトランクが一つあるだけで他に商品らしきものはない。そのトランクも、値札や商品の説明は何もなく明らかに使い古された感じで所々がくすんでいた。
他に品物が見当たらない以上、交換するのはこの薄汚れたトランク、ということだろうか。
中に何が入っているか知らないが、正直ゴミにしか見えなかった。
校門から出てくる生徒は何人もいたが、あからさまに無視して関わり合いにならないよう老人の前を足早に通り過ぎていく。
私も普段なら彼女たちと同じように通り過ぎ、家路へと急いだ。
今日に限って老人の前で足を止めたのは、それこそ偶然だった。あるいは、老人の持つ怪しい雰囲気と謎めいたトランク、そして説明不足にもほどがある立て看板の文字に、ほんの少しだけ興味を興味を引かれたからだったのかもしれない。
「交換って、何でもいいの?」
私の言葉に老人はゆっくりと顔を上げると、かさかさに乾いた唇をニィッと薄く割って笑みを見せた。近くで見ても、しわくちゃの顔は男か女かわからない。
体は全身を包み込むような黒いローブのようなもので覆われ、小柄なのか大柄なのかすら判断できなかった。
「なんでもさ」
見た目通り声もしわがれていて、ますます性別不詳。とはいえ老人の正体を突き止めたいわけでもないので、気にしないことにする。
私はカバンの中から三冊の大学ノートを取り出すと、それらをすべて老人に差し出した。
「これと交換して」
表紙には三人の名前と、それぞれの個性が出ている字で「数学」と書かれている。
単なる授業のノートだが、もしプロファイリングの専門家がいたら三人の生い立ちや人格までつまびらかにできるだろう情報の塊だ。
老人は私の手元を一べつして、ローブの中から枯れ枝のような腕を出すとそのまま何も言わずにノートを受け取った。
これをきっかけに連中が破滅してくれればと切に願い、手を離す。
「いいとも、交換成立だ」
老人はまたあの薄気味悪い笑顔を浮かべると、おもむろにトランクのロックを外した。
しまい込んだ三冊のノートと入れ替わりにトランクの中から出てきたのは、まったく同じ大学ノート。個性的な「数学」の字も、書いてある名前も、紙のヨレ具合にいたるまで、すべて同じで────。
って、いったんトランクに入れたふりをして同じものをまた出しただけだ、これ。
呆れ気味な眼差しを無視して、老人は三冊のノートを目線の高さに上げると先ほどの私と同じように差し出してきた。
「どこが交換なのよ……」
私は不満を感じつつも、少しだけ安堵しながらノートを受け取る。
失くした、などと言ったら持ち主たちからどんなひどい目に遭わされるかわかったものではない。
そんなことを考えながらパラパラページをめくっていくと、違和感を見つけた。
「あれ……?」
ノートの末尾には、数式とそれに対する解答が書き込まれている。だけど、今日の授業でこれを解いた覚えはない。
まさかと思い教科書を出すと、書いてあったのは宿題として出された範囲と同じ設問だ。
私が行うはずだった宿題が、私の手を煩わせることなく仕上がっている。それは一冊だけではなく、「交換」した他の二冊も同じだった。
「これ、どういう……!」
ノートから顔を上げると、目の前にいたはずの老人がいなくなっていた。
トランクも、ビニールシートもない。左右を見渡しても、いるのは下校途中の生徒ばかりで、たまに何もない塀の前に佇む私をチラチラ盗み見している。
私は急に恐ろしくなり、足早に家路へとついた。
その夜。私は自分のノートを広げ、宿題を自力で解いていった。
何度も見直して、間違いがないことを確かめてからもう一度「交換」済みのノートを開く。私が一時間かけて解き明かした解答と同じ数字が、三冊すべてに書き込まれていた。
これはどういうことだろう。
表紙の文字も、名前も、隅に描かれたパラパラ漫画の内容までもが同じなのに、宿題の答えだけが更新されている。
私が老人にノートを渡したのは、衝動的なものだ。偶然渡された物と全く同じ内容の物をあらかじめ用意して、さらに今日出たばかりの宿題まで完璧に仕上げるなんて芸当が、本当にできるのだろうか。
腑に落ちないわたしはインターネットを開いて、学園掲示板を探った。
校門前に居座る謎の老人だ。生徒間で話題になっていないはずがない。
「露天商」で検索すると、予想通り老人についての話題がいくつか出てきた。
【都市伝説? 七不思議? シルバートランクについて】
そんな名前がついていたのかと苦笑しながらスレッドを開くと、老人についての情報と、野次馬根性浮き出しの勝手な推測が飛び交っていた。
信用度の高そうな話だけピックアップすると、こういうことだ。
あの老人……ここでいうジルバートランクは不定期に校門前に現れる怪人で、交換してほしいと差し出したものをグレードアップして返してくれるらしい。
夏でも黒のローブで身体を覆い隠し、傍らには常に名前の由来にもなったトランクが置いている。交換するものの種類は問わないようで、以前、シルバートランクに話しかけた人物は最近機種のスマホや新品のシューズを手に入れたそうだ。
単に新品になって戻ってくるなら、まだわかる。けど、私の場合はもはやそういうレベルの話じゃない。
ある人間は交換の代償として最後は命を失ったとか。そうかと思えば弟子入りし、別の街で第二のシルバートランクとして活動しているとか。書き込みの日付が新しくなっていくごとにエンターテインメント性を重視した逸話が目立つようになってきたので、私はそのままスマホを閉じた。
結局、ほとんど情報を得られなかった。だけど、すでに私の中でこの不可思議な現象への折り合いはつき始めている。
不思議だけど、損害を被ったわけではない。彼女たちの宿題は片付けられ、私はそのぶん余った時間をネットにあてられた。
老人の正体も、交換の代償も特に興味はなかった。
その数日後、私は再び老人……校門前に座り込むシルバートランクを見つけ、話しかけていた。
「これ、交換してもらえますか?」
スマートフォンを差し出し、ダメもとで尋ねてみる。
メイン画面は真っ黒で、どのボタンを押しても反応しない。トイレの水に長時間浸かっていたからか、心なしかアンモニア臭も漂っている気がした。
「いいとも、交換成立だ」
しわがれた手が壊れたスマホを受け取り、トランクにしまう。そのわずか数秒後、機種もカラーリングも同じスマホが取り出され、私の手に収まった。
「……」
私は息を呑み、電源を入れる。
点いた。でも、それだけじゃない。
メイン画面の壁紙や、入れているアプリ。撮りためた画像やアドレスの一覧、プロフィールに至るまで、すべてが水没する前の携帯と同じだった。
間違いない。この老人は、渡した物と同じ物をより良くしてくれるんだ。
宿題をやっていないノートなら、宿題をやっているノートと。壊れた携帯なら、壊れていない携帯と。それ以外はすべての記録を引き継いで交換してくれる。
神か悪魔のような仕業に、私は凄いとだけしか言えない。自分の語彙のなさが心底恨めしかった。
よく眼鏡をかけていれば頭がいいように見られがちだが、実際はそんなことない。
クズでのろまで要領も悪くて……だから、彼女たちに目を付けられた。
「あ、あの……っ」
スマホから目を離すと、老人はまた姿を消していた。お礼ぐらい言わせてくれてもいいのに……。
次の日、私は携帯は見つかったのかと笑いながら尋ねる彼女たちに、馬鹿正直に見つけたと答えた。彼女たちはトイレの便器から物を拾った私を病原菌のように吹聴し、ことさらに不潔だと罵る。とても、楽しそうな顔で。
私は彼女たちの嘲笑を、愛想笑いで受け止める。泣けばウザいと言われて蹴り飛ばされ、沈黙はシカトするなと叩かれるから、笑って受け流す。
おぞましい連中と肩を並べて笑うたびに、私の心にヒビが入っていくようだった。
それでも反逆の機会なんてあるはずもなく、私はひたすら媚びへつらうしか生きていくすべはないと思っていた。
さらに数日後、彼女たちはこれまで私をばい菌扱いしていたことを詫び、「友達」らしく寄り道に誘われた。
急な対応の変化だが、もちろん真相を私は知っている。彼女たちは先日教師に呼び出され、口頭注意されたのだ。それで、わざわざホームルームの終了直後……担任の先生がまだ教壇に残っていることを確認して、私を誘った。
チラリと担任に目を向けると、彼は教師の務めを果たした満足感に浸り、ウンウンと深く頷いていた。
仲直りのしるしに今からカラオケにいこう。その誘いが私には死刑宣告にしか聞こえない。
密室で、防音で、長時間彼女たちと一緒にいるなんて、それはそれは想像を絶する苦痛が与えられるだろう。
マイクは当然のように回されず、あるいは下品な単語が目立つ歌を選曲してさらし者にされ、下手糞だと笑われながらドリンクを掛けられて、もちろんルーム代は全額私持ちに決まっている。
「きょ、今日は……用事が」
私が抵抗の意志をのぞかせると、とたんに彼女たちから非難がましい目と威圧的な声を向けられた。教壇の上で私たちの動向を監視する担任も、彼女たちではなく誘いを断ろうとする私に軽蔑的な眼差しを向けている。
私に、選択の自由はなかった。
彼女たちに囲まれながら校門を抜けると、壁際の地面に青いビニールシートが見えた。
私は彼女たちの包囲網から外れ、老人の前に立つ。
老人は私の顔を見ると、ニヤリと、口角を吊り上げた……ような気がした。ただの気のせいかもしれない。
「交換して」
私は怪訝な顔をする三人をまとめて指さし、深い考えも特にないまま、ただこの地獄から逃れたい一心でそう言った。
今度は気のせいではなくハッキリと唇をゆがめ、かさついた声で老人が例の台詞を呟く。
「いいとも。交換成立だ」
老人が三人の腕をつかみ、彼女たちは悲鳴を上げながらトランクに引きずり込まれる。私の脳内がそんなホラー映画のようなシーンを描いたが、想像に反して老人は彼女たちに何もしなかった。
枯れ枝のような腕でトランクをポン、ポン、ポン、と三回、軽く叩いた。ただ、それだけ。
「ねえ、早く行こうよ」
彼女たちの一人がそう声を上げ、再び私を取り囲む。
目を離したのはほんの一瞬だった。
けれど視線を塀際に戻した時、やはり老人の姿は跡形もなく消えていた……。
カラオケボックスに入ると、彼女たちのうち二人はさっそく選曲し、十八番なのか聞いたこともない歌を得意げに歌い始めた。
なるほど、飲み物を店員が運んで来るまでは普通に楽しむつもりか。私はそう考え、断頭台の階段を一段一段昇るような気分でその時がくるのを待った。
「なに歌うの?」
ほどなくして四人分のドリンクが運ばれ、いつこれを頭へ注がれるのかと緊張していると、あぶれていた彼女たちの一人がそんなことを訊ねてきた。
なに、歌う? それはまるで、私も普通に歌っていいと言っているみたいじゃないか。
まさかそんなはずはない、都合のいい妄想は捨てろと自分に言い聞かせる。
しかし彼女は終始やさしげな顔のまま、「こういうところ初めて?」だの「これなんか聴いた事ない? 一緒に歌ってあげよっか」だのと、気色悪いぐらい親切だった。
歌い終わった二人も会話に参加し、おススメの曲や流行歌、どこで知ったのかと問いたくなるような懐メロなんかを次々に挙げ、次々に選曲していった。
結局私は一時間ほど歌いっぱなしで、おかげで喉が少し涸れてしまうという初めての経験をするはめになる。
ドリンクは普通にのどを潤すために使われ、支払いも「お詫びだから」と一言いって彼女たちが全額持ってくれた。帰りは彼女たちとアドレスを交換し、笑顔で手を振って別れた。
……まさか教師のお説教で改心したなんて、いくら愚鈍な私でもそうは考えない。
彼女たちは、「交換」されたんだ。
私を退屈しのぎにいたぶる悪魔のような人格から、善人のそれと交換された。記憶はそのまま引き継いでいるから、善人になった彼女たちは私にしたことを反省し、心から「お詫び」しているのだろう。
「すごい……あははっ、なにこれ」
地獄から抜けられたばかりか、友達が出来た。解放感と同時に充実感に満たされ、街中にもかかわらず私は声を上げて笑った。
これからの人生は、きっと幸せに違いないと信じて────。
ところが、彼女たちと連絡を取り合うことはなかった。
教室に入れば挨拶するし、話しかければ親しげに答えてくれる。でも、それだけ。交換した日のようにどこかに遊びに行くこともなければ、長電話で夜更かしすることもない。
私と彼女たちはもともと搾取する側とされる側の関係でしかなかった。それが老人の「交換」により失われた今、私たちを結びつけるものは何もないのだ。
趣味も交流関係も、もちろんコミュニケーション能力だって、勉強するだけしか能のない根暗な私と比べれば圧倒的に彼女たちの方が上なのだから。
唯一の欠点だった最悪の人格も「交換」によって改められ、彼女たちは以前より遥かに親しまれるようになった。
私はというと、彼女たちのオモチャ対象から外れ平和な日々を過ごせている。
もてあそばれる私を見て見ぬふりしていたクラスメイトや教師は最初こそ腫物を扱うように親切にしてくれたけど、しばらくするとそれもなくなり、ただそこにいるだけの置物のような扱いに変わるまではあっという間だった。
構われないことを望んだのに、構われなくなると途端に物足りなくなる。わがままだと自分でも思うが、どうにも止まらない。
何がいけないのか。私を構ってくれない彼女たちが悪いのか。いっそ、クラス全員を「交換」してもらおうか。だがそれで皆が私に注目するとは限らない。
そこまで考え、私は一番いい方法をひらめいた。
クズでのろまで要領も悪く、根暗でスタイルも平均並みで、自分から輪の中に入っていく度胸もないコミュ障の私を「交換」してもらうのはどうだろう。
そうすれば、きっと私も彼女たちのようになれるはず。
スタイル抜群で、常に輪の中心にいるような、明るい女の子に。
その日の放課後、私はいつものように校門の脇でブルーシートを広げる老人を見つけると足早に近づき、何度も頭の中でシミュレートした言葉を口にした。
「私を交換して!」
思った以上に大きな声が出て、下校中の生徒が何事かと振り返る。でも、違う。私が浴びたい注目はこんな一過性のものじゃない。
老人は落ちくぼんだ眼球で私を見ると、またあの不気味な笑みを浮かべた。
「いいとも。交換成立だ」
その言葉を聞いた瞬間。
私の視界は暗転し、何事かと思う間もなく意識も暗闇に落ちていった……。
気が付くと私は、布団の上で目を覚ました。
どのくらい寝ていたのだろう。起き上がると、いやに身体が重かった。
ぼんやりした視界のまま手さぐりで眼鏡を探し、布団の上が、信じられないぐらい散らかっていることに気づく。
ハダカの美少女が描かれた漫画やアニメジャケットのCDが枕元に散乱し、空になったまま放置されたカップ麺の容器には割りバシが入れたままになっていた。
どこだろう、ここ。
身の回りどころか部屋の間取りそのものが変わっている。
ふと手元を見ると、視線の先に角ばった大きな手と無駄毛の生えた太い指が映った。
「な……に、これ……っ」
愕然としながら呟いた声は、低くて重たい。
喉元に触れると、石でも入っているのかと思うほど硬い何かが埋まっていた。
股間から感じる張りつめたものはあえて無視して起き上がると、お腹がズンと重量を訴えかけてくる。
意識を失う前に何をしていたか記憶をたどった。
「たしか昨日は、ゲームをしてそのまま寝落ち……ちがう!」
知らないはずなのに違和感のない記憶に背筋が寒くなるのを感じながら、私は老人に私自身の「交換」を申し入れたことを思い出す。
鏡には、見知らぬ男が写っていた。
小さくて卑屈そうな目。潰れたような低い鼻。ざらついた声や、過剰なほど脂肪の付いた体は、元の私よりずっと醜い。
どんなものとでも交換してくれる。少しだけバージョンアップして返ってくる。例外だったことなんて一度もない。なのにこれはどういうことだ。
私は慌てて部屋を飛び出し、「私」の元へ向かった。家に行くべきか、学園に行くべきか少しだけ迷い、もう登校しているだろう可能性が高い学園へ急ぐ。
男の家は近所だったのか、外に出ると覚えのある風景が見えてきた。
とにかく、一刻も早く「私」に会いたい。歩くたびに、女だった時の記憶がこの身体から抜け落ちていくような感覚がして、今にも足が動かなくなりそうだ。
馴染みのある通学路が、まるで初めて訪れたような場所に思えてくる。
何度も道を間違えかけ、そのたびに修正し、ようやく校門前にたどりついたころには間もなく予鈴の鳴る時間になっていた。
大汗を流してゼエゼエと息を吐きながら、この後どうしようかと酸素の足りない頭で考える。この姿のまま校舎に入れば、「私」と会う前につまみ出されてしまうだろう。なんとか理由を付けて呼び出せないものかと息を整えながら考えていると、校門から少し離れた位置にあるバス停にバスが停まった。
遅刻間際に登校する予鈴組の生徒たちが、乗降口から次々と出てくる。
みんなが慌てて校舎を目指す中、一人だけ悠々とした足取りでステップから降りる制服姿の女子がいた。
その姿を見た瞬間、私は弾かれたように動き、彼女の背後に呼びかける。
「私の体、返して!」
私がそう叫ぶと、「私」が驚いたように目を見開いた。
鏡で見慣れた姿が自分の意思と関係なく動き回るだけでも不快なのに、「私」は不審をあらわにした顔でジリジリと後ろにさがる。なんで自分にそんな顔をされなければいけないのか。疲れているのも忘れ更に詰め寄り、「私」の肩を思い切りつかんだ。
「あんた、この男? どうして私の中にいるの?」
「い、痛っ……あの、離してください」
眉尻を下げて、弱々しい声で懇願される。
わけがわからなかった。まるで本物の私みたいな反応に、ひたすら戸惑う。
「……もしかして交換前の私?」
愕然としているといつの間にか大きく距離を取った「私」が、訝しげな眼差しのままポツリと呟いた。
交換……前? いったい、何を言っているんだろう。私は、この体の男と心が入れ替わってしまった。そう思ったのに、違うの?
目の前で困ったように笑う「私」が、とてつもなく不気味な存在に見えてくる。
「あんた……あんた、いったい誰!?」
悲鳴のような声を上げて問いただすと、「私」はこともなげに笑顔で答えた。
「私は私だよ。クズでのろまで要領が悪くて、根暗でスタイルも平均並みの女の子」
でも。と続ける。
「見ず知らずの人とだって友達になれる、高いコミュ力が身についた。正確に言えば、コミュ力の高かったどこかのオタクと交換したんだけど」
コミュニケーション能力は、言ってしまえば人格だ。どんな風に考えてどんな風に相手に伝えるか、過去の記憶やこれまで培ってきた知識、性格によって構成される。
老人に「私」の交換を要求した私は、誰かのコミュ力と交換することで少しだけグレードアップした。結果、コミュ障だった私の人格は、交換相手の誰かの中に入ってしまったんだ。
「そんな……そんなこと……」
罵詈雑言や不平不満が喉元まで出掛かるが、舌がもつれて上手く喋れなかった。もにゅもにゅと口をうごめかす私に「私」が憐れみの目を向けてくる。
「不細工でオタク趣味のコミュ障って、救えないよね。超ヒサン」
「ふざっ……け……返してよ! 私の体!」
「人聞き悪いなぁ。こっちだって被害者みたいなものなのに」
空々しくため息を吐いて、おもむろに胸に手を当てる。私の目の前で「私」が自前の平凡な胸を揉み、小さな喘ぎ声を漏らす。
「んっ……朝起きたら女の子になっててさぁ。しかも夢にまで見た巨乳美少女とかじゃなくて、普通のどこにでもいる地味系女だって言うのがまたね……ぁんっ」
「や、やめ……っ」
「でも贅沢は言ってられないし、素材は悪くないからいいか。それに、先に交換したお仲間もいるみたいだし?」
あまりにも衝撃的すぎて、言っていることの半分も理解できなかった。ただもう、どうすれば元に戻れるのか、そればかりを考えている。
なのに名案は一つとして浮かばないまま、校舎から本鈴の鳴る音が聞こえた。
「やっば、遅刻だ。それじゃバイバイ、おじさん。これから大変だと思うけど、頑張ってね~」
「まっ……!」
「私」は軽やかに校門をまたぎ、通う慣れた足取りで校舎へ向かう。
追いすがろうにも、私の足はアスファルトに縫い付けられたように動かなかった。
部外者という感覚が、学園の敷地に踏み入るための難易度を上げる。
なぜあの女の子に絡んでしまったのか。頭の片隅ではそんな疑問がわきはじめていた。
あれから私は、毎日校門を見張っている。
なんとしてでも女に戻る。そのためには、老人に頼んで再交換してもらわなければ。
ところが、この男との交換以来、老人は姿を現さなくなった。
聞き込みをしようにもコミュ力の低さがためらいを生み、下校する生徒達に気軽に話しかける事が出来ない。
老人は一体どこへ行ってしまったのか。
何度か、「私」が彼女たちと下校する光景を見かけた。
善良な人間と交換した彼女たちと「私」は、傍目にも親しげなのがわかる。
私はそれを壁際からじっと見つめ、ジメジメとした羨みだけを蓄積していくしかなかった。

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