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短編 「心変わり」

無駄に前置きの長い物語です
救われない話なので注意です


 
その国では、王家と貴族とが絶対的な権力を握っていた。
 王家に取り入る貴族らで構成された議会が執り行う政治は人々の生活に明確な貧富の差をつけ、王国民は大きく二つに分裂していた。
 王族と貴族がのさばり、平民と呼ばれる者が搾取される。ここジュミット王国ではそれが当然のこととしてまかり通っていた。

 女子供が路傍で倒れていようと、誰も手を差し出すことはない。みな明日をどう過ごすかで頭がいっぱいだし、貴族にいたってはそういった存在を認知しているかすら怪しいものだ。
 その日も働き盛りであるはずの成人男性が街の片隅で行き倒れ、誰にも気に留められず息を引き取ろうとしていた。
 こんなことなら悪に身をやつしてでも自らの幸福を優先すべきだったと男は今わの際に考えるが、果たして生涯善人を貫いた彼が悪逆に手を染める事が出来たかはなはだ疑問である。
 彼の意識は暗闇へと沈み、二度と這い上がることはないと思われた。男の死に悼むことすらなく、平民たちは明日は我が身かと戦慄する。幾度となく繰り返された、この国の日常風景だった。
 しかし。
「大変! ユリィ、水を」
 死の際にいた男の前で馬車が停まると、車上から淡いローズピンクのドレスに身を包む少女が飛び出してくる。
 死体からの臨時収入を得ようと目を光らせていた民は、まず少女の身につけるドレスの上質さに目を剥いた。滑らかで光沢のある生地は、少女が動くたびにキラキラと輝いているように見える。もしかしたら金糸や銀糸を縫い合わせた、さらに上等なドレスかもしれない。
 次に彼らを惹き付けたのは、背中まで届く鮮烈なバラ色の髪の毛だ。平民の女はたいてい自らの髪を売ってしまうので、ロングヘアーを持つ女は貴族や娼館勤めの者が大多数を占めている。
 たっぷりの空気を含んだボリュームのある髪が小さな歩幅にあわせて揺れ、甘い香りを漂わせていた。
 体付きも上品で、それでいて妖艶な魅力にあふれていた。
 胸元から肩にかけて大きく開いたドレスは薄い鎖骨や肩の稜線をあらわにし、白い肌を惜しげもなくさらしている。
 乳房は見た目の年頃よりも豊かに膨れ上がり、歩くたびに胸元からこぼれ落ちそうだった。腰つきはコルセットなどで強制されているのだとしても見事なバランスで細くくびれ、大きく膨らんだロングスカートの上からでも丸みを帯びた尻の形状をほうふつとさせる。
 少女と女の狭間にいるような幼さを残す顔つきは、行き倒れた男の容態を心配してか悲しそうに陰り、柳眉を下げていた。
「おぉっ……リゼット姫だ!」
「相変わらずお美しい! 王女様バンザイ!」
 人々は突如として現れた王女を心から歓待し、諸手を挙げて讃えはじめる。
 貴族と平民との不和が日々激化するジュミット王国にあって、王族の彼女がここまで持て囃されるのはもちろんその美貌だけが理由ではない。
 彼女こそはリゼット・ベーシック。現国王ギープ・ベーシックの娘であり、近く戴冠の儀が決まっている。いわば後の女王であり、この国の正式な世継ぎだ。
 さらにリゼットは王家と貴族の権力撤廃を声高に唱え、ジュミット王国を君主制から共和制へと改めようとしている。格差の根絶を掲げる次期女王に、誰もが期待を抱いていた。
「姫様。水です」
 リゼットの傍らには、彼女にも引けをとらない美しい女が控えている。
 白金に染まった髪は王女と変わらない長さを持ち、うなじの辺りでひとつに束ね丁寧に編みこまれていた。
 少女らしさを強く残した顔立ちのリゼットと異なり、彼女は洗練された美貌の持ち主だった。手甲と最低限の箇所しか防護していないアーマーを服の上からまとい、腰には王家を守護する近衛騎士の紋章が刻まれた剣を差している。
 騎士は馬中から水差しを受け取ると、美貌に見合った穏やかな声で王女の手に握らせた。しかしその間も、リゼットに不届きを働く者はいないかと常に気を張り巡らせている。切れ長の瞳が、油断なく周囲を観察していた。
(姫様にも困ったものです)
 あたりをそれとなく警戒しながら、近衛騎士ユリアス・フォートランは心の中で嘆息する。
 王族がこのような往来で平民に手を差し伸べるなど、通常あってはならないことだ。しかしそれがリゼットのリゼットたるゆえんでもあるし、良い所でもある。
 貴族制度を廃止されれば、ほとんどの貴族がこれまでの生活を改めることになるだろう。
 身分をかさに着て好き勝手やったツケを支払わされることになる。民主化した後に生まれる法によっては、財産の差し押さえもありえた。
 つまり、王国から共和国への変革を公約に掲げるリゼットを快く思わない貴族は少なからずいるのだ。貴族の権利を主張する保守派が、王女を亡き者にしようと働きかけても何ら不思議ではなかった。
 できることなら、戴冠式が終わるまで城内からの外出も控えて欲しいぐらいだとユリアスは考える。しかし騎士である彼女は王女の命令こそ何よりも優先すべきものであると教育されてきた。
 リゼットが出かけるといえば、それに付き従うだけだ。
「ぐ……ごほっ、はあ、はあ」
 介抱されていた青年が咳き込み、彼の両目がゆっくりと開いていく。
「大丈夫ですか?」
 優しく声をかけるリゼットに、男は何も言わない。無礼な、と一方的に心証を悪くするユリアスだったが、やがて完全に意識を取り戻した男は跳ねるように身を起こし、王女から距離を取った。
「も、申し訳ありません! 私のような者にかかわったばかりに、リゼット様のお召し物を……!」
 レンガが敷き詰められたジュミット王国の道路は、城下から離れれば離れるほど埃やゴミが目立ち、中には剥がれて土がむき出しになった区画すら存在している。
 青年が倒れていた場所も割れたレンガの隙間から雑草が顔をのぞかせ、酔っ払いが吐き散らかした汚物の異臭がいまだに漂う、薄汚れた場所だった。男の身なりも不衛生で、道路との親和性はかなり高い。
 にもかかわらず、リゼットは嫌な顔一つせず往来でヒザをつき、長らく風呂に入っていないだろう小汚い男の頭を優しく抱え上げて水を飲ませた。聖女だと讃えられるのも無理はない。
「服など洗えば良いのです。そんなことより、あなたの命を助けることができてよかった」
「おぉ……っ、あ、ありがとうございます」
 感涙にむせぶ青年にリゼットは微笑み、背後の従者を振り返った。
「ユリィ、この方を私の別邸に。食事とお風呂と、それから仕事を与えて」
「かしこまりました」
 近衛騎士は主人の命に恭しく頭を下げ、馬上の小間使いへ同じ指令を下す。
 一部始終を見ていた平民たちは一様に敬服と賛辞の声を上げ、リゼットは少女らしい照れ笑いでそれに応えた。


「姫様はお優しすぎます」
 馬車が動きだしてからしばらくすると、不服など一切なさそうな顔をしていた女騎士の口から小言が飛び出していた。
 王女は悪びれる様子もなく、笑顔のまま振り返る。長い髪がさらりと揺れ、芳醇な香りが車中に広がった。
「王女として当然の務めでしょう?」
「だとしても限度があります。今週だけでもう5人も別邸に召し抱えているではないですか」
「大切な民を救うなと言うの? そもそもお父様や議会が蔑ろにするから、困窮する者が後を絶たないのに?」
「しかし……」
 リゼットの行為は著しく公平性を欠いている。貧困にあえぐ民は山のようにいるのに、たまたま目に触れた人間だけを救うのは自己満足にしか過ぎないのではないか。
 目の前で不公平を見せつけられれば、いくら親愛なる王女の行為であっても良い気はしないだろう。幼少より王女を守る使命をたまわるユリアスが懸念を抱くのは当然だった。
 リゼットはそんな従者の心中を見透かしたように微笑み、穏やかだが強い意志のこもった言葉を続ける。
「王女である内は、王女の立場でしかやれないことをやるつもりよ。たとえ偽善と言われてもね」
「ぎ、偽善などと、そんな滅相も……さしでがましいことを言いました。どうぞお許しください」
 毅然とした声に、ユリアスは己の狭量さを恥じた。
 リゼットの行為は善行である。それによって不和が生まれようと、自分さえいれば間違いは起こらない。そのための近衛騎士なのだから。
「それより貴女のその恰好、どうにかならなかったの?」
「は……?」
 それまでの、はやくも女王らしい貫録をにおわせる凛々しい笑顔から一転、年頃の娘のような悪戯っぽい微笑みに変わる。幼い頃からリゼットに仕える女騎士は、そんな彼女の些細な変化にすぐに気づいた。
「ドレスも用意したのに、結局いつもの制服じゃない。ユリィは美人だし、きっと似合うと思ったのにな」
「わ、私は騎士ですから」
 ユリアスの格好は、男性用の平服の上に薄い鎧をまとっただけのものだ。騎士としては最低限の装備であり、唯一いつもと違う箇所と言えば下半身がズボンではなく短めのスカートになっているぐらいのものだった。
 それすらユリアスにとっては顔から火が出るほど恥ずかしい。女の大事な部分を腰布一枚で遮り、足元から風が吹き抜ける感覚はとても頼りなくてそわそわする。すらりと伸びた白い脚は、戦いとは無縁の生き方をしてきたことを証明するように傷ひとつない。騎士ユリアスにとっては辱めを受けているのも同然の格好だった。
 もっともリゼットに悪意は一切なく、純粋に「女の子なんだから」というだけの理由でユリアスに女らしい格好をさせようとしているだけなのだが。
「侯爵もきっと気に入るはずよ。若い男性は、見目麗しい女性の脚に心惹かれるものなのだから」
「……はぁ」
 何を言っても無駄だと最初から分かっていたはずのことを再確認し、ユリアスはため息を落とした。
 スカートは出来る限り気にしないようにして、先ほど名を漏らした人物に思いを巡らせる。
「……それにしても珍しいですね。べリオン様から呼び出しなど」
 これから会うべリオン・シープラスは、リゼットの掲げる理念に賛同する数少ない貴族だ。立場におごることなく柔和な顔つきと態度でもって平民に分け隔てなく接し、上品でありながら精悍さも兼ね備えた好青年である。
 彼から急ぎ連絡を取りたいとの知らせが届いたのは、つい先日のことだ。
 詳細は何もなく、最低限の護衛のみで来られたしと、礼儀正しい彼にしてはやけに雑な連絡だった。
 しかしベリオンの人柄は善良そのものであり、どんな理由があっても王女に害なすことはないだろう。近衛騎士はそう判断した。
 信頼は、わずかな違和感を無視させる。
(何が起ころうと私がいます。この身に代えても姫様をお守りしますよ)
 敬愛する主に眼差しを向けて、ユリアスは心の中で誓う。
 女王に即位した後も、王という制度そのものが消失したとしても、嫁いだその先でも、自分はリゼットの近衛騎士であり続けると────。


 馬車が止まり、車から降りた二人はいつの間にか分厚い雲に覆われている空に揃って顔をしかめた。
 心なしか風も強まり、湿った臭いが鼻先をかすめていく。
「……雨が降りそうね」
「ええ。早く屋敷に入れてもらいましょう」
 御者に待機を命じ、わずかに歩調を速めて二人はシープラス侯爵の住む屋敷の門前に立った。
「リゼット王女のご来着です! 門を開けてください!」
 ユリアスが声を張り上げると、しばらくの沈黙を経て陰気な顔をした男がのぞりと現れる。ここの庭師なのか、右手に枝切りバサミと落ち葉の詰まった袋を握っていた。
 男は無言のまま門を開け、緩慢な動きで二人の前を歩く。見ているだけで気が滅入りそうな態度と雰囲気に、ユリアスはまたもや無礼者と初対面の相手を心の中で憤った。
 案内されるまでもなく、すぐ正面に屋敷の扉が構えてある。庭師の男はノックもせず扉を押し開き、やはり無言のまま中に入るよう手振りで促した。
 玄関ホールは広々としていて、二階へと続く大きな階段が左右に伸びている。
 正面の天井には豪奢なシャンデリアが飾られているが、今は使われていない。そのせいばかりではないだろうが、いやに薄暗く感じた。
「ベリオン様は二階の最奥でお待ちです」
 薄暗さの要因の一つである陰気な庭師はそれだけ言い、扉を閉めた。
 入り口を閉ざされた途端、閉塞感に襲われ屋内に漂う陰気な雰囲気がますます濃度を強める。
 それに、臭いも────。清廉潔白な美丈夫の住まいからは決して漂っていいはずのない、悪臭に悪臭を重ねた空気が鼻腔や目頭を刺激した。
 あえて指摘することなく二階に上がると、異臭は薄まるどころかさらに強烈になる。
 酒とタバコと、鼻につく派手な香水。青臭さと甘さと酸味をすべて一か所に集めたような、非常に好ましくない臭気だ。スラム街の方がまだ清涼感がありそうだった。
「これは、いったい……姫様。お気を付けください」
 ユリアスはリゼットの口元を覆い、素早く周囲に目を走らせた。
 べリオン本人どころか、朗らかな笑顔で客人を出迎えるメイドすら姿を見せないのは明らかにおかしい。外に出て官憲に連絡すべきだと判断し、ユリアスは王女と共にきびすを返そうとする。
「待ってユリィ。まずは、ベリオンの無事を確認すべきよ」
「そ、そうかもしれませんが……」
 たしかに、異臭がするというだけで騒ぎ立てるのも大ごとすぎる気がしなくもない。ましてやべリオンは貴族だ。王女の理念に賛同する者とはいえ、了解も得ず屋敷内に官憲を呼べば面目丸つぶれだろう。
「……わかりました。卿を探しましょう」
 ユリアスは頷き、二階の最奥の部屋、最も悪臭のきつい場所を目指す。庭師の話では、あの部屋にべリオンがいるはずだ。
「べリオン卿、おられますか」
 最奥の部屋をノックし、返事を待つ。間髪入れず、部屋の中から男の声が返ってきた。
「どうぞ」
 ユリアスは何が起きても対処できるよう全身の筋肉に緊張を走らせながら、ゆっくりとドアを押し開く。近衛騎士に腰を抱かれたリゼットも、固唾をのんでその挙動を見守った。

 部屋の中央には、ティーテーブルと一対の椅子が向かい合わせで置いてあった。壁の右側は書籍の詰まった本棚がいくつも並び、反対側には旺盛な装飾の施された全身が映る大きな鏡がはめ込まれている。
「ようこそいらっしゃいました、リゼット・ベーシック王女。そして近衛騎士ユリアス・フォートラン」
 ティーテーブルの前に立ち大仰に両腕を広げる男は、まさしくべリオン・シープラスその人だった。彼女たちが良く知る柔和な微笑みを浮かべ、歓迎の言葉を述べている。
 饒舌に二人のフルネームを呼ぶ貴族に、王女も礼節をもってそれに応じた。
「ご健勝で何よりですわ、べリオン・シープラス侯爵。お招きいただきありがとうございます」
 ドレスの裾をつまみ上げ、わずかに腰を落とす。王権や貴族制度の撤廃を掲げるリゼットだが、上流階級の作法や次期女王の務めは当然のように学習済みである。
 もしリゼットがいまの体制を維持しようと思えば、それは事もなく成し遂げられるだろう。女王として国を導くリゼットも決して悪くないのではと、ユリアスはときどきそんなことを考えていた。
「いやいや、お呼び立てしてしまい誠に申し訳ない。どうしても足を運んでいただきたい理由があったものでして」
「気にしませんわ。侯爵には普段からお世話になっておりますもの」
 上品にほほ笑みながら、リゼットは言葉を続ける。
「……それで、何があったかお話ししていただけますか? 理由、というのにも何か関係が?」
「ええまぁ、立ち話も何です。紅茶を用意しますので、どうぞご着席下さい」
 べリオンも同じくにこやかに言葉を紡ぎ出し、手ずからティーカップに紅茶を注ぎ始めた。
 使用人の仕事を自ら率先して行う貴族の姿は違和感だらけで、しかしそれが逆に親しみやすさを感じなくもない。
「メイドどもはいま取り込んでましてね。お口に合えばいいのですが」
 琥珀色の液体を二つのカップに注ぎ終えると、べリオンは慣れた動作でティーテーブルの椅子を引きリゼットを促した。
「では、お言葉に甘えまして」
 楚々とした動きで椅子に座り、侯爵はそれを見て満足そうに頷く。
 ユリアスは入口の傍に佇んだまま、彼の仕草一つ一つに注意を払った。ほんの一瞬だけべリオンから好色な気配を感じ取るが、好青年は普段と変わりのない笑みを浮かべたままだ。
(気のせい、ですか)
 あるいは、仕方のないことなのかもしれない。自分の主が魅力的なのはユリアスも良く知るところであり、男性ならば彼女に惹かれないはずがないのだから。
「ユリアス殿も、どうぞおかけください」
「はっ……?」
 姫の向かい側の席には当然のごとく侯爵が座るものだと思っていただけに、女騎士の口から気の抜けた声が漏れる。
 ユリアスも貴族の端くれではあるが、だいぶ身分は低い。館の主を差し置いてしかも王女と相席などと、普通なら絶対にありえないことだ。
「い、いえ。私はただの従者ですので、お気になさらず」
 相席に名残惜しさを感じつつも、騎士としての矜持を今一度胸に刻みユリアスは誘いを断る。べリオンは特に気にした様子もなく、そうですかと微笑んで空席に座った。
「ではリゼット姫。どうぞ、冷めないうちに」
「えぇ、頂戴します」
 リゼットが紅茶を一口飲み、何かに気づいたようにティーカップを眺める。
「これは……不思議な味わいですね。甘いのに少し酸味があって、とても美味しいです」
「ふふふ、お気に召していただけて何よりです。……ではそろそろ、お話いたしましょう」
 べリオンのまとう空気が、一気に豹変する。
 鷹揚に足を組み、王国きっての美女とも言われる王女たちに今度ははっきりと、好色な眼差しを使いはじめた。
「姫様には、貴族制度の撤廃を取りやめていただきます」
「……え?」
「だってそうでしょう? 貴女の計画は我々貴族にとって損しか生まない。無知で蒙昧な平民どもが議会に進出し、国を動かすなんてナンセンスです」
「な、なぜ……侯爵は、私に賛同していたのではないのですか?」
「賛同していましたとも。以前のべリオン・シープラスはね」
 クククッと好青年らしからぬ嫌悪感を抱かせる声で喉を鳴らし、邪悪な笑みを作る。
「もちろん、賛同する貴族が一人欠けたところで、貴女はやがて女王になることに変わりはない。民主化を訴え、我々貴族を葬るための制度をおつくりになられることでしょう」
「……そうね。どれだけ貴族の方々に反対されようと、私は必ずこの国を変えて見せます」
 裏切りを宣告された直後だというのに、リゼットの態度はあくまでも毅然としたものだった。
「用件がお済みでしたら、これで失礼いたしますわ。いくわよ、ユリィ」
 席を立ち、王女はきびすを返す。
 だが数歩も歩かないうちに、その身がふらりと傾いた。
「あ……」
「姫様!」
 ユリアスは慌てて抱きとめ、その小柄な体を腕の中に収める。
 白い肌がわずかに赤らみ、唇からは苦しそうな吐息がこぼれる。主の全身から高熱が発せられ、ユリアスは動揺しそうになる自分を必死で抑え込んだ。
(まさか、さっきの紅茶に毒が? くそっ、私が付いていながらなんという失態だ)
 激しい後悔に襲われながら、今からでも最善手を取るべく王女の体を担ぎ上げる。羽根のような軽さと抱き心地に、こんな時だというのにユリアスの心臓はドキッと高鳴った。悪臭にまみれた屋敷の中で、彼女の花のような匂いはより芳しく感じられる。
「どこへ行こうというのですか、騎士様。ショウはこれからですよ」
 誠実なべリオンの口から信じがたいほど軽薄なセリフが飛び出すが、ユリアスは無視して扉の外を目指した。
 しかし────。
「……降ろしなさい、ユリアス・フォートラン」
 毅然とした声で放たれた主の命に、ユリアスは反射的に従う。普段より少し硬めのこの声色で命令をされると、騎士である彼女は考えるよりも先に体が動いてしまう。
 抱え上げた姫の体を床に降ろし、心地よい香りを名残惜しそうに手放した。
 リゼットはそのまま部屋の中央へ引き返し、ニヤニヤと2人の様子を眺めていたべリオンの隣に立つ。
「ひ、姫様?」
 ようやく戸惑いを口にしたユリアスに、王女が体ごとくるりと振り向く。
 ひどく、歪んだ笑みを浮かべていた。
「ひはははっ! マジで言いなりじゃねぇか。王女様の記憶通りだな」
 それはまるで悪夢のような光景だった。
 毒を盛ったはずの相手の傍に立ち、聴いた事もない声色で口汚く喋るリゼットの姿に、冷静であろうとする女騎士の心が凄まじい勢いでかき乱されていく。
「おやおや。王女様ともあろうお方がそんな言葉遣いをしてはだめですよ。ほら、騎士様が呆然としておられる」
「あぁ? ぷっはは、ひっでぇ顔だな騎士様よぉ。せっかくの凛々しい顔が台無しよ、ユリィ?」
 理解を超えた光景に立ちすくむユリアスを、リゼットは粗野な男のような口振りのままで高笑い、唐突に元の彼女が良く知る声と表情に戻った。
 しかしそれも一瞬のことで、またすぐに人を見下した、悪意しか感じられない笑みを浮かべる。
「何がなんだかわかんねぇってツラだなぁ。ま、それも当然か」
「ですから、私は貴女にも紅茶を勧めたのですよ。あれを飲んでいれば、少なくとも姫君の傍にはいられたのですから」
 言いながらべリオンはリゼットの腰に手を回し、彼女を抱き寄せた。
 男の手が、小柄な体躯に似つかわしくない豊かな胸の上を這い回る。
「んひっ……て、てめ、さっそくかよ」
「いけませんか? 見られながらというのも、面白いじゃないですか」
「まぁ、そうだけどよ……んふぁ、んっ……!」
「どんな気分ですか? 胸を揉まれるというのは」
「んっ……な、なんか、ふわふわして……くすぐってぇ……んんぅっ」
 べリオンが手首を動かすたびにリゼットの乳房がたわみ、今にもドレスからこぼれ出しそうになる。遅れて、これは姫に対する狼藉だと気付いたユリアスが剣に手をかけた。
「止まりなさい、ユリアス!」
「!」
 姫の一喝でユリアスの全身が落雷を受けたように震え、白刃を引き抜きかけた動作がピタリと止まる。
 代々王家に仕える騎士の家系で生まれ育った彼女にとって、主の命令は絶対だった。たとえ主の様子が明らかにおかしくても、それは命令に背く理由にはならない。
「ふふっ、いい子ね。主人に逆らわない、よくできた飼い犬だこと」
「くっ……姫様。いったい、どうされたというのですかっ」
「説明する必要はありませんね」
 リゼットの鎖骨を撫でながら、べリオンが代わりに答える。
「犬は犬らしく、言いつけに従ってください。大丈夫、命まで取る気はありませんよ」
「ひははは、こんな美女がリスプッドの野郎と入れ替わったら、自分から進んで死にそうだけどな」
「いれ、かわ……?」
 聞き慣れない単語をオウム返しにするが、侯爵と王女は揃って笑みを浮かべるだけだった。
 美男美女が、お互いの肉体をまさぐり合う。
 リゼットは男の生殖器に向けて、何の躊躇もなく手を伸ばした。
「おーおー、優男のくせして、立派なモノ持ってんじゃねぇか」
「その喋り方は、興を削がれますね。王女らしくお願いしますよ」
「わかってますわ、べリオン卿。その代わり、気持ち良くなさってくださいね」
「御心のままに。リゼット王女」
 どこか白々しいやり取りを交わし、王女は近衛騎士の目の前で情事を始めるのだった。


 ────数か月後。
 リゼット・ベーシックは予定通り戴冠の儀を終え、女王へと即位した。
 同時に発表されたべリオン・シープラスとの婚約に、民衆は心より歓喜した。民を思いやる女王と夫君の誕生に、これでジュミット王国は劇的に変わるだろう、いやもしかしたらリゼットの掲げていた民主主義が本当に始まるのではないかと、誰もが期待していた。
 だが、リゼットは貴族のほんの一部を上流階級から追放しただけで、体制そのものを変えることはなかった。
 上流階級の出自のみで構成された議会と王族とで国を動かし、貧富の差はさらに広がっていく。先王の時代よりもひどくなっていた。
 平民たちの不満は日増しに強まるが、唯一、以前までと違って彼らには鬱憤を晴らす相手が用意されていた。
「いい気味だな! 貴族様ともあろうお方が物乞いか!」
「どんな気分だよ、お前らが今まで見下してきた平民に頭を下げるのはよぉ!」
「てめぇ、リスプッドだな! お前のせいで俺の娘は!」
 その日も殺気立った平民たちは追放され元貴族となった二人の男を取り囲み、積年の恨みをまさに晴らそうとしていた。
「ち、ちが……それは私たちじゃ」
「構うことねぇ! こいつらはもう平民だ!」
「そうだな。平民がどれだけボコられようが、貴族様は見て見ぬふりだぜ!」
「やっちまえ!」
 民衆は拳を掲げ、ある者は農工具や木の棒を手に取り、二人の元貴族に怒りをぶつける。
 リスプッドと呼ばれた男はその肥え太った体でヒゲ面の小男をかばい、たった一人で平民たちの暴力を受け止めた。

 身を挺して他人をかばう彼の姿に、かつて姫君を守ると心に誓った美しき女騎士の精神を見い出す者は一人もいなかった。

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