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長編はじめました
憑依能力に目覚めた男が奮闘する物語です
憑依能力に目覚めた男が奮闘する物語です
吊革につかまり、ぼんやりと車窓を眺めていると背中に何かが当たった。
振り向くと、大学生らしき女性が左手で私の背に触れている。寝不足気味な、どこか疲労した様子を見せる彼女の顔立ちに見覚えはない。見知らぬ人間に体を触られるのは同性であっても少し不愉快だった。
「……?」
女子大生は無言のまま手を下ろし、自分自身の行動が理解できないといった感じで首を傾げる。
しばらく心ここにあらずな様子だった彼女が急にハッとなり、慌てた様子で腕時計を確認した。
「うそマジ……? 完全にアウトじゃん……」
独り言にしてはやや大きな声で嘆き、肩を落とす。その顔は激しい後悔と羞恥の色に染まっていた。
(この時間じゃ、どう頑張っても間に合わないからなぁ)
彼女が今日、絶対に落とせない講義を控えていたことも、自慰に没頭しすぎて講義をサボってしまったことも私は知っている。
どうして見知らぬ彼女のスケジュールがわかるのか。そんな疑問は一瞬で消えた。
ほんの数舜前まで彼女は私であり、俺だった。把握していないはずがないのだ。
「俺」が私を支配したことで、あらゆる物の見方が塗り替えられていく。
たとえばこの、レディーススーツに包まれた肢体。見慣れきったはずの肉体を品定めし、私は生まれて初めて男として欲情した。
口元を緩め、ブラウスに重ね着したベストをなぞる。細い指先に下着の硬い感触と、その奥にある乳房の弾力を認め、カレシとの一夜がよぎった。
(冴えねぇ男だな……こんな奴が好きなのか)
男の甘くささやく声と微笑みが脳裏に浮かび、薄く唇を歪める。
(ふふっ、今日の予定は決まったな)
女に成りすまして恋人を振るのは、もはや定番の遊びといっていい。
「お前の恋人は俺が貰った」と正体を明かして恐怖と絶望に震える彼氏の顔を眺めるのも良いが、それよりも女に成りすまして、あたかも本人の意思でフっているように見せかける方が面白かった。
破局した恋人たちのやり取りは実に愉快だ。何度見ても飽きることがない。
そのうえ愛しい相手を自らの言葉で傷つけ、嘆き悲しみ震える女の心すら「俺」がかすめ取り、消化する瞬間がたまらなく心地良い。
自分自身では引き出しようもない感情を得ることで別人になった実感がより際立ち、俺はますます興奮していくのだった。
「……っ」
さっそく彼氏へ連絡しようと、取り出したスマホを危うく落としかける。
いつの間にか開いていた電車のドアから、美少女が乗り込んで来た。美少女は自分のヒザ下ぐらいまであるキャリーケースを抱え、小鳥が鳴くような愛らしい声で「ふぅ」と一息つく。
長い黒髪を左右に分けた、おとなしい感じの子だ。ワンピースにすっぽりおさまる体つきは平凡で、よく言えばバランスの取れたスタイルをしていた。
バストサイズなら、さっきの女子大生の方が上だろうし、私の体だって負けていない。
顔立ちが特別すぐれているわけでもなかった。美少女には違いないが、もっと可愛い見た目の少女に取り憑いたことだってある。
なのに、この、どうしようもなく惹かれてしまう感覚は何だろう。
彼氏と出会い惹かれていった時のようなトキメキが溢れだし、止まらない。これまでの人生で同性にこんな感情を抱いたのは初めてだ。
(私がレズ……ってわけじゃないなら、原因は「俺」か?)
人を好きになる気持ちは知っている。女に取り憑き、心まで取り込むことでその感情は俺のものになるからだ。
しかし、自分自身から湧き出たのは初めてのことだった。
一目ボレ、というヤツだろうか。
憑依を繰り返し、女の「ぜんぶ」を手に入れてきたこの俺が、たまたま見かけた少女に心奪われるなど実にバカげた話だ。
(すぐ、俺のものにしてやる)
恋焦がれ、煩悶する必要などない。今まで憑依してきた女と同じだ。
俺は乗っ取ったOLの姿のまま、揺れる車内を移動した。コツコツとヒールが響き、シートに座る男どもが私の脚線美に注目する。
物欲しそうな視線に優越感を感じながら、少女の背後に立った。あとは触れるだけで、俺はこの少女に成り代わることができる。
俺はこの身体に入り込んだ時と同様、ためらいなく赤の他人に触れた。
「?」
少女が振り向く。不思議そうな顔で二三度まばたきし、続いて腰に回した腕を戸惑いがちに見下ろした。
「あ……の?」
「俺」の意思を介することなく、少女が遠慮がちに口を開く。
当たり前のことに驚き、やっと肉体の乗り換えが出来ていないと理解が追い付いた。
(どういうことだ?)
ワンピースの上から太ももを撫で、接触面積を増やしてく。それでも憑依は出来ない。
同性の身体をまさぐる「私」に私自身が違和感を抱きつつも、手はまるで痴漢のようなねちっこい動きでスカートの中へ潜り込む。
少女は肩を縮こまらせ、困惑した目を向けてきた。
「や……やめて、ください」
オドオドした印象通りの声。が、今はそこに何の感慨もない。
(取り憑けない……! くそ、なんでだ!)
こんなことは初めてだ。下半身だけでなく上半身にも手を這わせるが、一向に「俺」は少女の中へ入り込めなかった。
「……っ!」
俺の手つきがいよいよ痴漢めいてきたからか、少女は唇を噛んで震えている。
その恐怖心すらとっくに掌握し、少女へと成り代わっているはずなのに。
「くっ……!」
目の前にいる女が自由にならない。憑依の力を得てからは一度も味わうことのなかった歯がゆい気持ちに襲われ、苛立ちが降り積もっていく。
やがて車内アナウンスが停車駅を告げ電車が止まると、少女は俺の手を振り払いドアへと駆け込んだ。
「チッ……!」
初めて憑依が失敗し、追うタイミングを完全に見誤る。
降車した少女と入れ違いに、ジャージ姿の女子高生たちが乗り込んできた。自分達の話に夢中なのか、遅れて降りようとするOLには見向きもしない。
とはいえ、俺に人混みは関係なかった。
左手で先頭の少女に触れると、彼女が「俺」になる。「俺」になった少女はすぐ後ろにいる後輩へ左手を伸ばし、彼女を「俺」に移す。
それを繰り返し、わずか数秒で「俺」は最後尾の女にたどりついた。
振り返ると、ホームを小走りする例の少女が見える。
「どうしたの? 早く乗りなよ」
急に足を止めたあたしを、剣道部の主将が優しい声で急かした。
あたしたちはこれから他校との練習試合に行くところだ。インターハイ直後と言うこともありそれほど格式ばったものではないが、運動部において時間厳守は当然のルールだ。
それを知りながらあたしは皆から離れ、少女の後を追った。引き止める声ももちろん無視する。
遠ざかる車両に後ろ髪を引かれながら、乗っ取ったばかりの脳で考える。
動かす体に違和感はない。憑依能力は健在だ。なら、やっぱりあの少女が特別なのか?
しばらくすると少女はコインロッカーの前で立ち止まり、ふらりと背中を預けた。
息を整えているらしい。あまり、体力がないのだろうか。
「……もう一度試してみるか」
俺は自分の左手を一べつし、少女に近づくための身体を物色した。
***
駒鳥聖歌(こまどりせいか)にとって、あのエンカウントは衝撃だった。
両脚がガクガクと震え、気を抜けばそのまま崩れ落ちてしまいそうなかねないほどの恐怖に見舞われながら少女は先ほどの出来事を振り返る。
(なにあれ……痴漢……? ううん、お、女の人だったから……痴女ってやつ?)
底冷えするカラダを抱きしめ、初めて遭遇した性犯罪者に戦慄する。幼い頃からエスカレーター式の女子校に通っていたためか、彼女は性に対する耐性が同年代の少女と比べて脆弱だった。
「どうされましたか?」
トン、と肩を叩かれた聖歌が顔を上げると、すぐ傍には駅員の恰好をした女性がいた。
柔和な眼差しで微笑みかけてくる駅員を見た瞬間、電車内での嫌悪感がぞわぞわと駆け抜ける。顔も姿かたちも似ていないのに、なぜかその女性からは先ほどのOLと同じ雰囲気を感じた。
第一印象だけで他人を毛嫌いしたのは、聖歌の人生で初めてのことだった。
「もしもし?」
「あ……その、大丈夫、です」
肩に触れる左手をそっと払い、ふらふらと歩き出す。
とにかく、今はこの人から離れたい────聖歌はそれだけを胸に、改札口を目指した。
「あ、お姉ちゃん。こっちこっち」
ツンと澄ました、それでも不思議と親しみを感じさせる声が聞こえ、聖歌はようやく人心地がついた気分になる
駅の入り口では妹の美耀(みよ)が支柱から背を離し、小さく手を振っていた。
聖歌はようやく彼女らしい控えめな微笑みを浮かべ、改札を抜ける。
「ただいま、美耀。部活帰り?」
「まあね。夏休み中ずーっと、ひたすら練習してたよ。ホントまいっちゃう」
大げさに肩を竦め大人っぽくため息をつくものの、妹の表情はどこか楽しげだった。
縛りの強い全寮制の学院生活だが、充実しているらしい。やっぱり自分も実家に帰らず学院の界隈で過ごすべきだったかと、聖歌の頭の中でロマンス溢れる青春の1ページが夢想される。
(少なくとも……出かけなければ怖い目に遭うことはなかった、よね)
聖歌は何気なく駅の構内を振り返り────まだ蒸し暑い残暑の中で、再び寒気を感じた。
見ている。
女性駅員は、聖歌に声をかけた場所から一歩も動いていなかった。
獲物の動向を探るかのような目でじぃっとこちらを窺っている気がして、慌てて顔を正面に戻す。
「は、早く帰ろっ! ね?」
「な、なに? 恥ずかし……じゃなくて、痛いんだけど」
いつまでもここにいると、駅員の視線に絡みつかれて動けなくなりそうで。
聖歌は恥ずかしがる妹の手をやや乱暴に引き、ロータリーへと向かった。
***
遠ざかる少女たちを見送ると、俺は少女の肩に触れた女駅員の左手へと視線を移す。
「……やっぱりだ」
どういうわけか、あの少女には憑依できない。
ぜんぶ奪うどころか、名前すらわからずじまいだ。どんな女でも一瞬でモノにしてきた俺にとって、それは堪えがたいほどの屈辱だった。
「面白ぇ……」
ニィと唇を吊り上げ、獰猛な笑みを浮かべる。
穏やかな性格を自負する私の思考は、「俺」の影響ですっかり攻撃的になっていた。
手に入らないと思うと、なおのこと欲しくなる。
憑依失敗の動揺は、やがて獲物を見つけた喜びへと変わり始める。漫然と女への憑依を繰り返し快楽に溺れているだけでは得られない昂りを感じていた。
「うふふふ……」
「俺」は目の前を通り過ぎた女の腕に触れると、女駅員を尻目にICカードで改札を抜けた。
少女の姿は既にない。しかし探し出す方法はいくらでもある。
「あの子の制服、どっかで見た気がするんだけどなぁ……」
私の脳裏に、見たこともない二人の少女が浮かび上がる。一人は学生服だ。
残念ながら私の脳はあまり物覚えが良い方ではないようで、「俺」は即座に別の身体を物色した。繰り返していけば、いずれ彼女たちを知る誰かに当たるだろう。
必ず見つけ出し、体も、記憶も、人生も、ぜんぶ俺のものにする。
楽しい狩りの始まりだ。
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振り向くと、大学生らしき女性が左手で私の背に触れている。寝不足気味な、どこか疲労した様子を見せる彼女の顔立ちに見覚えはない。見知らぬ人間に体を触られるのは同性であっても少し不愉快だった。
「……?」
女子大生は無言のまま手を下ろし、自分自身の行動が理解できないといった感じで首を傾げる。
しばらく心ここにあらずな様子だった彼女が急にハッとなり、慌てた様子で腕時計を確認した。
「うそマジ……? 完全にアウトじゃん……」
独り言にしてはやや大きな声で嘆き、肩を落とす。その顔は激しい後悔と羞恥の色に染まっていた。
(この時間じゃ、どう頑張っても間に合わないからなぁ)
彼女が今日、絶対に落とせない講義を控えていたことも、自慰に没頭しすぎて講義をサボってしまったことも私は知っている。
どうして見知らぬ彼女のスケジュールがわかるのか。そんな疑問は一瞬で消えた。
ほんの数舜前まで彼女は私であり、俺だった。把握していないはずがないのだ。
「俺」が私を支配したことで、あらゆる物の見方が塗り替えられていく。
たとえばこの、レディーススーツに包まれた肢体。見慣れきったはずの肉体を品定めし、私は生まれて初めて男として欲情した。
口元を緩め、ブラウスに重ね着したベストをなぞる。細い指先に下着の硬い感触と、その奥にある乳房の弾力を認め、カレシとの一夜がよぎった。
(冴えねぇ男だな……こんな奴が好きなのか)
男の甘くささやく声と微笑みが脳裏に浮かび、薄く唇を歪める。
(ふふっ、今日の予定は決まったな)
女に成りすまして恋人を振るのは、もはや定番の遊びといっていい。
「お前の恋人は俺が貰った」と正体を明かして恐怖と絶望に震える彼氏の顔を眺めるのも良いが、それよりも女に成りすまして、あたかも本人の意思でフっているように見せかける方が面白かった。
破局した恋人たちのやり取りは実に愉快だ。何度見ても飽きることがない。
そのうえ愛しい相手を自らの言葉で傷つけ、嘆き悲しみ震える女の心すら「俺」がかすめ取り、消化する瞬間がたまらなく心地良い。
自分自身では引き出しようもない感情を得ることで別人になった実感がより際立ち、俺はますます興奮していくのだった。
「……っ」
さっそく彼氏へ連絡しようと、取り出したスマホを危うく落としかける。
いつの間にか開いていた電車のドアから、美少女が乗り込んで来た。美少女は自分のヒザ下ぐらいまであるキャリーケースを抱え、小鳥が鳴くような愛らしい声で「ふぅ」と一息つく。
長い黒髪を左右に分けた、おとなしい感じの子だ。ワンピースにすっぽりおさまる体つきは平凡で、よく言えばバランスの取れたスタイルをしていた。
バストサイズなら、さっきの女子大生の方が上だろうし、私の体だって負けていない。
顔立ちが特別すぐれているわけでもなかった。美少女には違いないが、もっと可愛い見た目の少女に取り憑いたことだってある。
なのに、この、どうしようもなく惹かれてしまう感覚は何だろう。
彼氏と出会い惹かれていった時のようなトキメキが溢れだし、止まらない。これまでの人生で同性にこんな感情を抱いたのは初めてだ。
(私がレズ……ってわけじゃないなら、原因は「俺」か?)
人を好きになる気持ちは知っている。女に取り憑き、心まで取り込むことでその感情は俺のものになるからだ。
しかし、自分自身から湧き出たのは初めてのことだった。
一目ボレ、というヤツだろうか。
憑依を繰り返し、女の「ぜんぶ」を手に入れてきたこの俺が、たまたま見かけた少女に心奪われるなど実にバカげた話だ。
(すぐ、俺のものにしてやる)
恋焦がれ、煩悶する必要などない。今まで憑依してきた女と同じだ。
俺は乗っ取ったOLの姿のまま、揺れる車内を移動した。コツコツとヒールが響き、シートに座る男どもが私の脚線美に注目する。
物欲しそうな視線に優越感を感じながら、少女の背後に立った。あとは触れるだけで、俺はこの少女に成り代わることができる。
俺はこの身体に入り込んだ時と同様、ためらいなく赤の他人に触れた。
「?」
少女が振り向く。不思議そうな顔で二三度まばたきし、続いて腰に回した腕を戸惑いがちに見下ろした。
「あ……の?」
「俺」の意思を介することなく、少女が遠慮がちに口を開く。
当たり前のことに驚き、やっと肉体の乗り換えが出来ていないと理解が追い付いた。
(どういうことだ?)
ワンピースの上から太ももを撫で、接触面積を増やしてく。それでも憑依は出来ない。
同性の身体をまさぐる「私」に私自身が違和感を抱きつつも、手はまるで痴漢のようなねちっこい動きでスカートの中へ潜り込む。
少女は肩を縮こまらせ、困惑した目を向けてきた。
「や……やめて、ください」
オドオドした印象通りの声。が、今はそこに何の感慨もない。
(取り憑けない……! くそ、なんでだ!)
こんなことは初めてだ。下半身だけでなく上半身にも手を這わせるが、一向に「俺」は少女の中へ入り込めなかった。
「……っ!」
俺の手つきがいよいよ痴漢めいてきたからか、少女は唇を噛んで震えている。
その恐怖心すらとっくに掌握し、少女へと成り代わっているはずなのに。
「くっ……!」
目の前にいる女が自由にならない。憑依の力を得てからは一度も味わうことのなかった歯がゆい気持ちに襲われ、苛立ちが降り積もっていく。
やがて車内アナウンスが停車駅を告げ電車が止まると、少女は俺の手を振り払いドアへと駆け込んだ。
「チッ……!」
初めて憑依が失敗し、追うタイミングを完全に見誤る。
降車した少女と入れ違いに、ジャージ姿の女子高生たちが乗り込んできた。自分達の話に夢中なのか、遅れて降りようとするOLには見向きもしない。
とはいえ、俺に人混みは関係なかった。
左手で先頭の少女に触れると、彼女が「俺」になる。「俺」になった少女はすぐ後ろにいる後輩へ左手を伸ばし、彼女を「俺」に移す。
それを繰り返し、わずか数秒で「俺」は最後尾の女にたどりついた。
振り返ると、ホームを小走りする例の少女が見える。
「どうしたの? 早く乗りなよ」
急に足を止めたあたしを、剣道部の主将が優しい声で急かした。
あたしたちはこれから他校との練習試合に行くところだ。インターハイ直後と言うこともありそれほど格式ばったものではないが、運動部において時間厳守は当然のルールだ。
それを知りながらあたしは皆から離れ、少女の後を追った。引き止める声ももちろん無視する。
遠ざかる車両に後ろ髪を引かれながら、乗っ取ったばかりの脳で考える。
動かす体に違和感はない。憑依能力は健在だ。なら、やっぱりあの少女が特別なのか?
しばらくすると少女はコインロッカーの前で立ち止まり、ふらりと背中を預けた。
息を整えているらしい。あまり、体力がないのだろうか。
「……もう一度試してみるか」
俺は自分の左手を一べつし、少女に近づくための身体を物色した。
***
駒鳥聖歌(こまどりせいか)にとって、あのエンカウントは衝撃だった。
両脚がガクガクと震え、気を抜けばそのまま崩れ落ちてしまいそうなかねないほどの恐怖に見舞われながら少女は先ほどの出来事を振り返る。
(なにあれ……痴漢……? ううん、お、女の人だったから……痴女ってやつ?)
底冷えするカラダを抱きしめ、初めて遭遇した性犯罪者に戦慄する。幼い頃からエスカレーター式の女子校に通っていたためか、彼女は性に対する耐性が同年代の少女と比べて脆弱だった。
「どうされましたか?」
トン、と肩を叩かれた聖歌が顔を上げると、すぐ傍には駅員の恰好をした女性がいた。
柔和な眼差しで微笑みかけてくる駅員を見た瞬間、電車内での嫌悪感がぞわぞわと駆け抜ける。顔も姿かたちも似ていないのに、なぜかその女性からは先ほどのOLと同じ雰囲気を感じた。
第一印象だけで他人を毛嫌いしたのは、聖歌の人生で初めてのことだった。
「もしもし?」
「あ……その、大丈夫、です」
肩に触れる左手をそっと払い、ふらふらと歩き出す。
とにかく、今はこの人から離れたい────聖歌はそれだけを胸に、改札口を目指した。
「あ、お姉ちゃん。こっちこっち」
ツンと澄ました、それでも不思議と親しみを感じさせる声が聞こえ、聖歌はようやく人心地がついた気分になる
駅の入り口では妹の美耀(みよ)が支柱から背を離し、小さく手を振っていた。
聖歌はようやく彼女らしい控えめな微笑みを浮かべ、改札を抜ける。
「ただいま、美耀。部活帰り?」
「まあね。夏休み中ずーっと、ひたすら練習してたよ。ホントまいっちゃう」
大げさに肩を竦め大人っぽくため息をつくものの、妹の表情はどこか楽しげだった。
縛りの強い全寮制の学院生活だが、充実しているらしい。やっぱり自分も実家に帰らず学院の界隈で過ごすべきだったかと、聖歌の頭の中でロマンス溢れる青春の1ページが夢想される。
(少なくとも……出かけなければ怖い目に遭うことはなかった、よね)
聖歌は何気なく駅の構内を振り返り────まだ蒸し暑い残暑の中で、再び寒気を感じた。
見ている。
女性駅員は、聖歌に声をかけた場所から一歩も動いていなかった。
獲物の動向を探るかのような目でじぃっとこちらを窺っている気がして、慌てて顔を正面に戻す。
「は、早く帰ろっ! ね?」
「な、なに? 恥ずかし……じゃなくて、痛いんだけど」
いつまでもここにいると、駅員の視線に絡みつかれて動けなくなりそうで。
聖歌は恥ずかしがる妹の手をやや乱暴に引き、ロータリーへと向かった。
***
遠ざかる少女たちを見送ると、俺は少女の肩に触れた女駅員の左手へと視線を移す。
「……やっぱりだ」
どういうわけか、あの少女には憑依できない。
ぜんぶ奪うどころか、名前すらわからずじまいだ。どんな女でも一瞬でモノにしてきた俺にとって、それは堪えがたいほどの屈辱だった。
「面白ぇ……」
ニィと唇を吊り上げ、獰猛な笑みを浮かべる。
穏やかな性格を自負する私の思考は、「俺」の影響ですっかり攻撃的になっていた。
手に入らないと思うと、なおのこと欲しくなる。
憑依失敗の動揺は、やがて獲物を見つけた喜びへと変わり始める。漫然と女への憑依を繰り返し快楽に溺れているだけでは得られない昂りを感じていた。
「うふふふ……」
「俺」は目の前を通り過ぎた女の腕に触れると、女駅員を尻目にICカードで改札を抜けた。
少女の姿は既にない。しかし探し出す方法はいくらでもある。
「あの子の制服、どっかで見た気がするんだけどなぁ……」
私の脳裏に、見たこともない二人の少女が浮かび上がる。一人は学生服だ。
残念ながら私の脳はあまり物覚えが良い方ではないようで、「俺」は即座に別の身体を物色した。繰り返していけば、いずれ彼女たちを知る誰かに当たるだろう。
必ず見つけ出し、体も、記憶も、人生も、ぜんぶ俺のものにする。
楽しい狩りの始まりだ。

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